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城内2丁目の圓通寺 [堂々巡り]

栃木市城内2丁目の圓通寺は正式には「星住山 松樹院 圓通寺」と言い、天台宗のお寺です。
この寺院は天長2年(825)慈覚大師円仁によって、下野国栃木郷の太平山の山頂に創建されたと伝えています。
中興開山は「比叡山の等海法印」、中興二世は「高慶大師救海」と言います。
救海和尚は応永二十三年(1416)53歳の時、自ら入定を決意し太平山中腹真野谷と言う所で岩屋の中に入り座禅を組み食べ物をとらずお経を唱えながら生命を断ちました。時の朝廷は救海の功績を称え「高慶大師」という諡号を賜りました。
救海和尚が死に至る間に記録した文書は「入定記」と称して圓通寺に保存されています。
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太平山には、昔圓通寺が有った場所を「圓通寺平」、「救海」が入定をした場所を「真野入り」として今に伝えています。
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先日この「高慶大師」の入定平に行ってきました。太平山遊覧道路の大曲駐車場の所を見晴台方面に曲って最初のカーブの所に「入定平」の案内板が有りました。
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入口に「高慶大師の墓」の石碑が有り沢に下る石段が有ります。今は杉の枝が一面に落ちており、少し危険な状態になっていましたが、足元に注意して降りました。杉木立の中に「高慶大師」の墓は有りました。墓前で手を合わせた時、丁度お墓の後ろに太陽が輝き、何か神々しさを感じました。時間は丁度午前10時になった時でした。
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圓通寺は永禄六年(1563)皆川城主俊宗によって、太平山から大平町川連へ移され、次いで天正七年(1579)に皆川を継いだ広照によって現在の地へ移されました。皆川広照はこの圓通寺に北接した所に栃木城を築きました。尚、現在の圓通寺の場所には真言宗で弘法大師によって開かれたと称している「長清寺」が有りました。現在でも圓通寺の前庭には弘法大師のゆかりの清水と言い伝えている場所が有ります。これは長清寺時代の名残になります。
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境内には本堂に対面する形で八角形の薬師堂が有ります。この薬師堂は「都賀三十三薬師霊場9番札所」となっておりました。
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又、本堂に向かった左側に大きな宝篋塔が二基並んでいますが、手前は台座の部分に「小林」と有り、正面には「普門品三萬巻・法華経一千部・観音灵場百番」供養と印刻されています。宝篋塔は元、栃木旭町小林六左衛門氏が享和二年(1802)父祖菩提の為に当時旭町に有った「蓮池院」に建立した物で明治23年に現在の圓通寺に移転安置されたものです。(下野史談第8巻「都賀三十三薬師順拝」近堂亀吉氏寄稿文より)
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圓通寺は多くの歴史上のエピソードに富んだ古刹です。
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