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栃木市の天台宗の古刹 定願寺 [堂々巡り]

栃木市旭町に有る「定願寺」は、弘仁6年(815)伝教大師が東国を順礼された折に開基されたと伝えられた天台宗の古刹です。正式には「順礼山 修徳院 定願寺」です。
元は現在の栃木市大平町川連にあり、「阿弥陀堂」と言いました。
700年余りのちの、永禄六年(1563)に皆川城主皆川俊宗は川連城を占拠しました、そしてこの城を拡張し、城下の「阿弥陀堂」において、大永3年(1523)の宇都宮忠綱との戦い<川原田合戦>で陣死した祖父宗成や戦死した家臣達の供養を執り行い、念佛料として栃木の土地を寄進した。その後、皆川藩を継いだ広照は天正十九年(1591)栃木に新しい城を築き、本拠を移転しました。
皆川広照は栃木城建設に当たって、神社仏閣の再配置を行い、城下を整えていきました。
川連に有った阿弥陀堂も現在の地に移され「定願寺」と変えられました。

栃木駅から大通りを北に向かって進むと右手より旧例幣使街道が合わさってきます。以前消防署や警察署が有った場所は現在は空き地になっており、駐車場として利用されています。その北側に、小さい交差点が有り東への道の突き当りに「定願寺」が有ります。
山門は日光宮様御成門として、文政6年(1823)室町の豪商杉江小一郎が献納した物と言います。門の柱は駕篭彫りで木を波形に削り、しかも獅子の姿をしているので波形の獅子と言われ、栃木市の文化財になっています。
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本堂は寛政九年(1797)の造営、本尊「阿弥陀如来」(秘仏)をお祀りしています。
本堂正面の扉の向かって右側にも扉が有りその上に「観世音」の扁額が掲げられています。
定願寺は「都賀三十三観音霊場」の第二番札所にも成っています。
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本堂向かって左手に嘉永4年(1851)に建てられた鐘楼が有りますが、鐘は「平等庵の鐘」といい、寛政4年(1792)に造られた佐野天明鋳物です。
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平等庵は元本町に有った寺との事ですが、その場所が何処なのか分かりません。現在本町を流れる杢冷川に架かる「本橋」から南に少し下がった道の東側に「平等寺」と言う扁額を掲げたお堂が建っていますが、「平等庵」との関係が有るか今後調べたいと思います。
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又、「平等庵」に関しては、杢冷川の源流、日ノ出町の小金井街道北側に有る溜池脇の石碑の文、冒頭に「此処杢冷湧池ハ元真言宗平等庵ノ境内ニ在リタル一湧泉ナリシト傳エラルルモ・・・・・」と記されている。この碑で言う「平等庵」との関係は。色々分からない事ばかり。
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今度は本堂に向かって右手、山門を入って直ぐの所に池に囲まれた堂宇が有り、正面に赤く染まれた鳥居が有ります、弁天堂です。
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その前に立派な作りのお堂が有ります。「不動堂」です。
この不動堂は慶長年間(1610年頃)に田村彦左衛門信清が、現在の栃木市役所の南側に土地や什物などと共に寄進した、「成就院不動尊」との事で、廃寺後昭和12年(1937)11月に、定願寺境内に移されました。明治四十年に発行された「栃木県営業便覧」に栃木大通り西側「萬町常盤橋通」の北側の脇道に「不動尊」の文字が見えます。
弘化三年(1846)の丙午大火の時、この不動尊の所で鎮火した事から、「火伏不動」と呼ばれるようになったと伝えています。
お堂の正面左右の扉には見事な彫刻がほどこされています。市指定の重要文化財で、文化四年(1807)野州富田村(現栃木市大平町富田)の名工「磯部儀兵衛の作で、全部が透かし彫りになっています。
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その他、境内には「安産地蔵堂」や上野東叡山寛永寺から移建された「石灯篭」など、見るべき物が沢山有る由緒ある寺院です。
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本澤清治

今の住職とは幼馴染で、本堂の屋根に登って遊びました。
今度、改築するので募金中とか?
by 本澤清治 (2019-11-04 19:03) 

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