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栃木市旭町の満福寺 三鬼尊を祀るお寺 [堂々巡り]

今回訪れる寺院は、栃木市旭町の満福寺です。
鎌倉時代の弘長2年(1262)薗部村の太平山麓に、洛南醍醐寺報恩院にいた朝海法印が、天下泰平国家安穏を祈祷する寺として創建されました。その当時は「薗部山 地蔵院 満福寺」と号していました。
天正年間に皆川広照公の栃木城造営及び町づくりの際に、栃木町の東の木戸の守衛を兼ねて現在の地に移されました。現在は「教王山 遍照光院 満福密寺」と改号されております。
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当時栃木町に出入りする為には、東西南北に各一ヶ所設けられた木戸を通らなければならなかった。
 東は現在栃木文化会館の北側、杢冷川に架けられた「旭橋」が有りますが、その場所に木戸が有りました。したがって満福寺は当初は南向きで、入口は現在の裁判所の正門の所と言われています。
 西は巴波川に架かる念仏橋(現在の幸来橋)、南は同じく巴波川に架けられた開明橋。
そして、北側は現在の万町交番の前です。栃木の大通りは万町交番から北側の道路(通称、北関門道路)は昭和11年に出来た道路で、それまでは西に折れて嘉右衛門町への道と、東に折れて宇都宮方面へ行く道に分かれていました。

横道にそれました。天正十九年(1591)満福寺に関東八州の領主となった徳川家康公が鷹狩の折りに休憩をされました。そしてその際の住持の応接に満足した家康は朱印五石を賜りました。以来寺勢は大いに振るい、広い境内に多くの堂塔が建ち並ぶ大伽藍を擁すまでに成りましたが、文久二年(1862)の本陣火事により壮麗を誇った堂宇はことごとく灰燼に帰してしまいました。

満福寺は、赤・青・黒三体の「三鬼尊」を祀るお寺として特に有名になっています。
特に中央の青鬼は江戸時代の名工、左甚五郎の作とも言われ、「酒買い」の伝説が有り、動き出さないように鎖でつながれております。藤岡町冨吉の素封家、石塚進之亟の寄進されたもので、市指定文化財となっています。
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境内には観音堂が有ります。祀られている観音様は、元片柳村二杉明神の直ぐ東に有ったものを、明治五年に満福寺に移したものと言われ、古来より子安観音と称されています。昭和四年に仏堂を新設して入仏開帳をしています。この観音堂に掲げられた扁額の「無畏城」の文字は書家の中村不折の揮毫されたものです。
満福寺5.jpg満福寺6.jpg
尚、江戸時代に片柳村に恵光院と言う寺院が有りましたが、弘化二年(1845)に満福寺に併合をしております。この恵光院が何処に有ったか私には分かりませんが、永野川に架かる「大柳橋」の西側で、永野川と並行して流れる用水堀に架かっている小さな橋が有りますが、以前は「恵光院橋」と称していました。又、その場所から南西側に有る共同墓地内に、「栃木町長 長谷川調七識」と彫られた小さな記念碑が立っていますが、碑文には「栃木町大字平井字柴崎平井共有恵光院墓地は昭和10年1月24日永野川改修工事の為・・・・・」と有る所から、恵光院もこの近所に有ったものと思われます。
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満福寺にかかわる話題はまだまだありますが、もう一つ。
現在は「大師堂」となりました旧本堂の裏手に供養の碑が一つ立っていますが、明治四十一年栃木町に生まれ、奄美大島で活躍をした日本画家「田村一村」の偉業を顕彰し供養に併せて平成八年十一月に、同寺にて建立した供養碑です。
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満福寺は平成二十三年、開創七百五十年に合わせて、新本堂(大毘廬遮那殿)が建立され、既に完成をしていた太子堂、客殿、住坊等を含め境内の整備が進んでおります。
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以前北側第二公園との境に有りました築地塀はとても趣が有りましたが、痛みがひどくなり作り変えられました。少し残念ですが地震等の災害が多い昨今、これもやむを得ないことなのかもしれません。
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木村修

恵光院は平井町551の長澤さんちです
by 木村修 (2020-01-07 16:47) 

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