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小野寺で雨に濡れた一遍上人 [堂々巡り]

今日、岩舟町小野寺方面に車を走らせた。一昨年ごろより何度か訪れているが、今回は小野寺城址と二代藩主「小野寺道綱」のお墓を見たいと思った。東北自動車道の側道付近は工事中が多く目的の場所に思うように進めなかった。東北道の東側の側道脇に目的の「小野寺禅師太郎墓」がきっちりと整備された、小さなお堂の様な建物の中に祀られていました。
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長閑な田園風景の中を東北自動車道が南北に貫いています。直ぐ南側には岩舟ジャンクションが有り、北関東自動車道が佐野・足利方面へ分岐しています。
お墓の脇に建てられた案内板によると、小野寺城館跡は東北自動車道建設に伴い消滅してしまったと有ります。この場所に東西約324m、南北約198mの「回」の字をしていた。明治の頃は土塁の一部も残っていたと有ります。東北自動車道を挟んだ西側の道路脇には小さな三角形の石碑が建てられ「小野寺城跡」と大書された横に、「保元元年 小野寺義寛 築城、 承久三年 道綱戦死廃城」と記されています。
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都で滝口の武士を務めていた藤原義寛は、源為義に仕えて戦功が有った為、小野寺保を与えられて、小野寺氏を称するようになった。そして保元元年(1156)に小野寺城を築きました。
二代藩主は義寛の子「道綱」で、治承四年(1180)の平等院の戦いでは「平知盛」の軍に加わり、勇名をとどろかせ、鎌倉幕府では要職を歴任していましたが、承久三年(1221)六月、68歳で京都宇治橋の合戦に参加し討死しています。
この小野寺城が有った丁度西方、佐野市との境界となる山脈の東麓に「住林寺」と号する時宗の寺院が有りますが、この寺の創建は承久の乱において討死した「小野寺禅師太郎道綱」の菩提を弔うために、小野寺氏が建てたものです。
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住林寺が時宗となった由来は正応年間(1288~1293)に一遍上人が東国巡化の途中にこの寺に招いて法要を営んだ。それが縁で以来時宗の寺になったと言われています。
国宝の「一遍上人絵伝」(円伊筆)の中に「下野小野寺の雨宿り」の様子が描かれています。
一遍上人語録に、「下野国小野寺といふ所にて、俄に雨おびただしく降りければ、尼法師みな袈裟などぬぐを見給ひて <ふればぬれぬるればかはく袖のうへを、雨とていとふ人ぞはかなき>」と詠んだと言います。
小野寺と言う所は不思議な所だと改めて思いました。都から遠く離れたこの地に日本の仏教界に影響を及ぼした多くの僧侶が足跡を残しています。天台宗の「伝教大師最澄」が、浄土真宗の「親鸞聖人」が、そしてここから京に上った「慈覚大師円仁」もいます。
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