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赤津川分水路 忘れられない思い出の川 [栃木市の河川と橋]

私の父の実家は、巴波川倭橋の近くに有りました。
昔はよく巴波川の水が氾濫して、家の中まで流れ込んで来たと言います。その時は、ただただ2階に避難して水が引くのを待っていたと聞きました。
現在、栃木市街地が洪水の被害に遭う事は殆ど聞かなくなりました。それは赤津川分水路の成果によるものです。
赤津川分水路7.jpg赤津川分水路4.jpg
(赤津川分水路、前田橋 バックに太平山) (県道32号線平和橋より下流側を望む)    
栃木の市街地は江戸の昔から毎年のように川の氾濫による水害に見舞われていました。その原因は赤津川でした。国土地理院が大正6年に発行をした「栃木」の2万5千分1の地図を見ますと、当時の赤津川の流れが良く表わされています。添付概略地図の中央部をうねうねと蛇行して流れる赤津川(赤と黒色にて表示)が有ります。(現在の概略図に大正6年地形図の赤津川の流路を、上書きする)
概略地図左上の吹上町から、蛇行して南南東方向に流れ、野中町の北東側を流れ、箱森町の東を南下し、小平橋下流部にて巴波川に合流しています。
旧赤津川の流れを追う.jpg
(赤津川分水路が出来る以前の旧赤津川の流れを追加して現した概略図)
この赤津川の流路を、吹上町の新田橋の下流部(長宮神社が有る標高82mの小丘の東側)から、ほぼ待直ぐに南に開削して、錦着山の北西部で永野川に放流出来る様にしたものが、赤津川分水路です。
同じく平成25年国土地理院発行の「栃木」の地図を見ると、東北自動車道の栃木IC入口付近を北から南に流れる赤津川の姿を確認できます。また、小平町付近には現在も旧赤津川の蛇行する流路を探すことが出来ます。栃木第三小学校の南側、巴波川に架かる「小平橋」の直ぐ下で右岸から合流する川が、元の赤津川になります。
分水路工事は昭和23年度から着手され、昭和26年3月に竣工しています。分水路の延長は2,780m、計画流水量は毎秒135立方メートルで、赤津川の全量を分水するものです。工事に費やされた費用は当時の金額にて8千万円と言われました。
赤津川分水路1.jpg赤津川分水路0.jpg
(吹上町赤津川の新田橋)       (新田橋上より下流側を望む、奥に東北自動車道)
しかし、この赤津川分水路計画は、簡単には進みませんでした。錦着山のふもとに昭和21年11月に「巴波川改修事務所」が建てられ、工事の測量が始まりましたが、分水路が通る事になった、吹上・皆川の農民が「栃木市民のために先祖伝来の田畑をゆずる必要はない」と、反対運動が起こりました。
農民約百人がムシロ旗を掲げ、事務所に押し掛けクワを手に気勢を上げ、警官が出動する騒ぎにもなりました。昭和22年になると永野川下流の薗部や平井の沿岸住民も「赤津川を分水すると永野川も氾濫する」と、反対運動に加わる事態になったそうです。当時の小根澤市長や鈴木土木事務所長、戸沢工事主任達が毎日のように農民を説得して当たった結果、農民がやっと納得して農地買収にたどり着けたとの事です。
昭和23年3月だったそうです。(読売新聞社宇都宮支局編「野州百話」赤津川分水工事の苦心の記事を参考にさせて頂きました。)
現在も錦着山の山上西側に永野川と赤津川分水路の合流点を望む様に、当時の栃木市長「小根澤登馬雄翁」の胸像が建っています。
赤津川分水路2.jpg赤津川分水路5.jpg
(錦着山上に建つ小根澤登馬雄翁の胸像)   (胸像の下に埋め込まれた碑文)
赤津川分水路には、水路によって分断されるそれまでの農道の場所に、全て橋が架けられています。これは、これまで通りに地元農民の生活の利便を考慮したものと思われます。
赤津川分水路8.jpg赤津川分水路9.jpg
(1968年撮影の赤津川を渡る荷馬車。運んでいるのは瓦用の土か?)
この「赤津川分水路」は現在、栃木県の土木遺産に登録されています。

又、この赤津川分水路には私にも忘れられない思い出が有ります。
それは私が小学5年の夏の事です。その時の赤津川は台風が過ぎた後で、流れも速く水嵩も相当上がっていました。そんな時にクラスメート3名と川遊びに行ったのでした。私はもともと泳ぎが苦手で、その時の川の様子に不安が有りましたが、川に入り足の着くところで遊んでいました。ところが何のはずみか、足を滑られて川の中に倒れてしまい、意識が動転して、必死にもがいて、川岸に生えている草を掴もうとしたもちぎれて流されたのでした。おぼれて、しこたま水を飲んで「ああ、もう駄目だ」と、子供心に死を覚悟したのでした。その瞬間、私は友達の手によって川から引き上げられました。
その後、助けてくれた友人の話では<突然おぼれだして、流されて川の中に見えなくなってしまった。必死で川岸を駆けていたら、突然水面に頭が出て来たので、急いで捉まえる事が出来た>と。
私が死を覚悟して、もがくのをやめた事で、体が浮いて水面に現れたのでした。
一歩遅かったら、今の私は居なかったかもしれません。友に感謝でした。その帰り友達の家で、ゆでた新ジャガに塩を付け頬張りました。その美味しかったこと、今も覚えています。
そんな忘れられない思い出の有る「赤津川分水路」です。
赤津川分水路3.jpg赤津川分水路6.jpg
(錦着山上より永野川・赤津川分水路合流点を)(永野川上人橋上より上流側合流点を)
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