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白河の関にて [石碑]

今日、福島県いわき市へ行った帰りに、「白河の関」に寄ってきました。栃木市田村町に有る国指定史跡「下野国庁跡」、下野国庁は律令制の奈良・平安時代、下野国統制の中核として設置された役所ですが、その国庁の南側を西から東へと通っていた、当時の都から陸奥国に通じる官道「東山道」が下野国から陸奥国に至る要衝に、白河の関は設けられました。
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(復元された下野国庁の前殿)     (下野国庁跡資料館に展示されている国庁復元模型)
白河の関は鼠ケ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所でした。私も以前から来てみたいと思っていた所です。実は昨年(2014年)の11月30日に白河方面にドライブした際、往路は東北自動車道を使いましたが、復路は下を通る事にして、白河から「旧奥州街道」に入りました。山里の道を進み、福島県から栃木県へ入った時、「境の明神」の存在に気付き、道路沿いの駐車場に車を停めて、那須町指定史跡「境の明神」にお参りして帰宅しました。
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(栃木県側の「境の明神」と説明板)
その際、「白河の関」の有る旧東山道は別なルート、県道76号線で有る事を知りました。
又、「境の明神」も私がその時お参りした栃木県側の他に、県境の峠の北側に福島県側の「境の明神」の存在にも気付きました。何時も行き当たりばったりの観光をしているので、中途半端な事が多いです。それで、先日8月24日に再度「旧奥州街道」国道294号線を走り、「境の明神」の福島県側にもお参りをして来たばかりです。
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(福島県白河市との境)       (福島県に入ると街道左手に石灯籠が建つ「境の明神」)
福島側の「境の明神」の境内には、寄進された多くの石灯籠や石碑が立ち並んでいました。社殿に向かって左手奥側には、松尾芭蕉の句碑も建てられていました。
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(福島県側の「境の明神」)
句碑は安永六年(1777年)の建立となっています。境の明神は文禄四年(1595)に当時白河を支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営しています。松尾芭蕉は元禄二年(1689)四月二十日(新暦6月7日)に、この「境の明神」を通って、初めて陸奥国(白川領)に足を踏み入れています。
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「風流の はじめや 奥の 田うへ唄」(はせを)
松尾芭蕉はここから白坂の宿に進み、宿の入口で右に折れて、旧東山道の旗宿へ向かいました。しかし芭蕉が旅した頃は、歌枕として著名であった「白河の関」は廃れてしまい、その場所さえ特定出来ていない状態だったようです。
「白河の関」を現在の白河神社の地としたのは、寛政十二年(1800)白河藩主松平定信です。
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(白河神社の社殿と拝殿正面に掲げられた扁額)
白河神社の境内には「古関蹟」の石碑が建てられています。昭和四十一年(1966)9月12日に「白河関跡」として国の史跡に指定されました。
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(白河藩主松平定信が寛政12年8月、ここが白河関跡であることを断定した古関蹟の碑)
神社に参拝した後境内を散策しました。周辺には土塁や空堀の跡も有り、又「従二位の杉」と称する、鎌倉時代前期の歌人、従二位藤原宮内卿家隆が手植えし、奉納したと伝えられる老木も有りました。
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(境内に建つ「奥の細道」の碑)                  (従二位の杉)
又、白河神社の参道入口より少し北側に行った街道沿いに、芭蕉の句碑が建てられています。
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「西か東か 先早苗にも 風の音」(芭蕉)
句碑の建つ街道の反対側には、お地蔵さんや馬頭観世音や二十三夜塔などの文字塔が、多数祀られておりました。
少し離れた「白河関の森公園」の中に芭蕉と曾良の像が建てられていました。
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(芭蕉と曾良の像)
日が暮れかかって来たので、急いで帰路の途につきました。

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