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下野市の国分寺へ [堂々巡り]

今日は、栃木市から東方面へ自転車を走らせました。神田町から真直ぐ東に寄居町を抜け、国指定史跡の下野国庁跡の南で、思川の大光寺堰から取水した、「美田東部用水」の幹線が北から南に流れています。
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(下野国庁跡、復元された前殿が見える)         (美田東部用水幹線)
この用水は歴史が古く、開鑿されたのは元禄十二年(1699)と云われています。旧豊田、穂積村の小宅・黒本等の八つの大字の水田を灌漑しました。その後も何度も改良を加え、現在に至っています。
用水堀に橋が架かっています。「おおはし」の橋名板が付いています。長さm、幅4m程の小橋ですが、名前は大きいです。橋の下流側右岸に雑草に埋もれる様に、国土地理院が設置した「四等三角点」が有ります。
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(美田東部用水に架かる「おおはし」)        (橋の右岸の草むらに三角点「古国府」)
基準点名は「古国府」、標高は43.11mです。関東平野の田畑の中に位置し360度視界が開けています。
東側には栃木市の南東端に位置する「古国府(ふるこう)」の集落が有りその東側に思川の土手が見えます。目を西側に転じると、正面奥に太平・晃石の山並み、右手前には「下野国庁跡」、宮目神社の森が見えます。
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(三角点設置位置から西方を望む、正面奥に一等三角点の有る晃石山が見える。)
用水堀に沿って南に下がります。300m程で栃木市田村町から小山市小宅に入ります。この辺り行政区の境界線が東西に走っていますが、この境界線に沿っていにしえの「東山道」が通っていたと云われています。下野国庁が境界線の北側に面するこの場所、かっては奥州へ向かう人達や、都に戻る人達の往来が有ったと思うとロマンが広がります。
用水堀の脇に背の高さ3m強にもなる、大きな石碑が建てれれています。正面に元「栃木縣知事従四位勲三等 山縣三郎書」となる「幹線改良記念碑」の文字が刻されています。この碑は昭和十一年から昭和十五年にかけて行われた「県営用水幹線改良事業」の竣工記念碑になります。
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(美田東部用水の右岸に建つ石碑)    (石碑正面、元栃木県知事 山縣三郎による文字)
自転車は小山市小宅の集落を抜け、思川に架かる仮橋「小宅橋」を渡って、思川左岸の小山市飯塚の集落に入ります。
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(思川に架かる仮橋「小宅橋」遠望)         (小宅橋を東橋詰より)
飯塚は街の中央を南北に県道18号線が抜けています。この道はかっては「日光西街道(壬生通り)」と称し、小山市喜沢にて宇都宮を経由して日光に至る「日光街道」から分かれ、壬生を通って鹿沼市楡木にて「例幣使街道」と合流する街道です。国土地理院2万5千分の1「小金井」の地形図を眺めると、飯塚の集落は道路の両側に短冊状に町屋が形成されています。今も道路を壬生方向に走らせると、宿場町の趣を覗わせています。
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(現在の日光西街道・壬生通りの飯塚宿)
暫らく行くと「国指定 琵琶塚 摩利支天塚 古墳」の標識が道路上に見えて来ました。折角なので寄っみます。右折して脇道に入ると直ぐ正面に小丘を背にして鳥居が建っています。
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(琵琶塚・摩利支天塚古墳の標識) (摩利支天尊社の鳥居、後方の小丘が古墳)
右脇に「摩利支天尊」と刻した石柱があり、「史跡 摩利支天塚古墳」の説明板や「しもつけ風土記の丘案内図」などが建てれれています。
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(史跡説明板・摩利支天塚古墳)         (しもつけ風土記の丘案内図)
古墳の上に祀られている社殿に参拝をします。摩利支天塚古墳は説明板に依ると、≪隣接する琵琶塚古墳とともに県内で最大の規模を誇る大形の前方後円墳≫との事で、全長117m、前方部幅約75m、高さ約7m。後円部直径約70m、高さ10m。≪この古墳の築造年代は、5世紀末から6世紀初頭と推定されます。このような巨大な古墳の被葬者は、大和王権による支配体制の中で、下毛野国をはじめて統括した大首長であったとも考えられます。≫と説明されていました。
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(摩利支天塚古墳、前方部より後円部方向を望む)(後円部墳頂に祀られた摩利支天尊社)
続いて、北隣りに有る琵琶塚古墳にも登って見る事にしました。琵琶塚古墳も摩利支天塚古墳と同じ前方後円墳で、全長約123m、前方部幅約70m、高さ約9m。後円部直径約75m、高さ約11mと説明板に記されています。こちらの古墳には後円部の墳丘上に、小さな石の祠が祀られているだけでした。
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(史跡、琵琶塚古墳の説明板)     (琵琶塚古墳後円部墳頂に祀られた石の祠)
丁度墳丘周辺の発掘調査が行われていました。どのような結果に成るか、発表が待たれます。
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(国指定史跡琵琶塚古墳の東側面、左が前方部、右側が後円部)
古墳を後にして、下野市の国分寺を目指します。途中「天平の丘公園」「国分尼寺跡」を横目に、更に北に自転車を走らせます。道路は県道44号(栃木二宮線)に突き当たります。その道路の突き当たった先に真言宗豊山派の寺院「瑠璃光山安養院国分寺」が有ります。
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(瑠璃光山安養院国分寺、右手に本堂、正面奥薬師堂、火の見櫓の下が釈迦如来堂)
本堂前に「本堂会館建設経緯」を記した顕彰碑が建てられています。その冒頭に≪聖武天皇が国分寺建立の詔を発せられたのは、天平十三年(741)でありました。この詔勅によって建立された国分寺は「金光明四天王護国之寺」として僧20人がおかれてその地方の文化学問の中心をなしていたわけでございます。その後、建物の改修を重ね約三百年隆盛を極めましたが十一世紀には衰退期に入ったとされています。現在の瑠璃光山安養院国分寺がいつの頃建立されたか明確では有りませんが、先祖様が懸命に守ってきたお寺を私達の時代に潰してしまう訳にはいかないだろうと会合の都度総代相語らいその対応策を模索していました。 (後略)≫と記されています。今、立派になった本堂が建てられています。本堂に向かって左手方向に、これも立派な造りの薬師堂が建っています。
薬師堂の更に左手に、大きな五輪塔が三基並んでいます。これらの五輪塔は、下野市指定の文化財で、一説には聖武天皇、光明皇后、行基菩薩を祀ったものと云われます。
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(都賀三十三薬師、第20番札所)      (下野市指定文化財の五輪塔)
私はこの薬師堂を訪れるのは、4回目になります。最近では2013年10月12日です。栃木市教育委員会生涯学習課主催の「古代遺跡と薬師巡礼」と言う現地学習に参加した時です。国分寺は「都賀三十三薬師巡礼第20番札所」に成っています。
ここから後は交通量の少ない裏道を抜け壬生町を経由して栃木に戻りました。約28kmのサイクリングを楽しみました。

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