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岩舟町歴史ウォーキング [歩く]

今日は昼前から小雨が降る天候になりましたが、栃木市教育委員会生涯学習課主催の、「岩船山&円仁ゆかりの地を歩こう!」に参加して来ました。
栃木駅前に集合して、JR両毛線にて岩舟駅へ。岩舟駅前にて地元岩舟地域の人達と合流して、主催側スタッフ3名、参加者18名、そして案内して下さる講師1名の総勢22名にて歩いて岩舟町の史跡スポットを巡りました。
最初は出発地「岩舟駅」の駅舎石組みについて、地元産出の岩舟石を使用して「ドイツ組み」と言う大小異なるサイズの石を組んで造られていると、説明されました。
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(JR両毛線岩舟駅駅舎)                  (岩舟石をドイツ組みしている)
次に岩船山の麓に建つ、日本で一番小さい資料館とも言われる「岩舟石の資料館」を見学しました。これまで何度も建物外観の写真は撮っていましたが、中に入るのは初めてです。
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(岩舟石の資料館)              (資料館天井から吊られた照明にも趣が有ります)
説明に依ると資料館となったこの建物は昭和初期に日本を襲った大不況の際に、石工の救済と岩舟石の細工技術の保存の為に、当地にて石材店を営んでいた川島定四郎氏によって、会社の事務所として建築されました。内装・外装ともにすばらしい細工が施され、当時の石工の技術の高さが覗われるものです。
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(資料館の外壁、岩舟石を細工して積んでいる。窓枠もモダンである)
資料館の裏手から岩船山中腹採石場跡の駐車場への道を登り、更に正面の石段の参道を登ります。少し登った右側に岩窟を利用した堂宇が有ります。中に舟の形に削った岩舟石の上に立った地蔵尊が祀られています。この場所は、宝亀元年(770)、日頃より生きている地蔵菩薩を拝みたいと願った、鳥取県大山の名僧弘誓坊明願が霊告によりはるばるこの地を訪れた時に、地蔵菩薩の化身であったとされる伊賀坊に出会った場所だと云われています。
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(坂中地蔵堂)              (岩船山で一番古い地蔵と云われる舟に乗った地蔵尊)
更に参道の残りの石段を必死の思いで登り、山頂に建てられた天台宗の寺院、「岩船山蓮華院高勝寺」へ。まず一番手前に建つ栃木県指定文化財の三重塔の元に向かいました。
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(休まずには登れない653段の石段)         (県指定文化財の三重塔)
県内の三重塔は、益子の西明寺、日光の四本竜寺、そしてここの3ヶ所だけと云います。寛延四年(1751)に建立されたもので、相輪頂上までの高さ19m、地元岩舟町駒場の大山平六と云う大工棟梁の名が棟札に記されていました。
三重塔から右手に少し下ると、同じく県指定文化財となっている、鐘楼の前に出ますが、現在修復工事の為周りを覆っている為、鐘楼を見学する事は出来ませんでした。説明に依ると文化財的価値が有るのは、地元特産の岩舟石による基礎と、岩舟石を巧みに組み上げた袴腰の部分に有るそうです。
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(県指定文化財の鐘楼)             (高勝寺本堂前参道両側の天明鋳物製燈籠)
本堂前参道両側に宝暦十三年(1763)に造られたと云われる、四基の天明鋳物製の燈籠が建っています。先の大戦において行われた共出を、菊の御紋が付いていた為免れたと云います。
奥之院まで行った後、本堂前の石段を下りて、享保十五年(1730)の建立で、栃木県内で一番大きいと云われる仁王門を見学しました。
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(県指定文化財も仁王門)         (改修前山門の花瓦。「岩舩山」の文字が見える)

岩船山の見学は終わりです。次は、三毳山も北東側の山裾、下津原手洗窪の慈覚大師誕生の地に向かいます。岩船山参道の石段653段も、下りは何の苦も無く下りる事が出来ました。
途中、岩舟町最大の規模を持つ「甲塚古墳」、径約65m、高さ約7m、二段築成の大型円墳の横を通過して、三毳山麓の誕生寺に着きました。
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(甲塚古墳)                   (古墳の脇に立てられた案内板)
テキストの一部として配布された「岩舟町文化財・史跡めぐりノート」には、この慈覚大師誕生の地のなかで、大師の事を≪平安時代随一の学僧であり、日本天台宗興隆の一大貢献者である慈覚大師は名を円仁といい、延暦十三年(794)の秋ここで誕生された。生家壬生氏は崇神天皇の第一皇子豊城入彦命の子孫といわれる名族であった。≫と記しています。この地の直ぐ近くを古代の東山道が通っていました。実際にどこを東山道が通っていたかは、遺構などが確認されていない為、ハッキリしていません。三鴨の駅として畳岡や下津原附近が言われていますがそれも確認されていないようです。この駅家の駅長が壬生公首麻呂(みぶのきみおびとまろ)で慈覚大師円仁の父親と云われているとの説明も有りました。
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(三毳山北東部山裾にひっそりと残る、慈覚大師円仁誕生の地)
次に向かったのが、慈覚大師円仁のお母さんをお祀りしたお墓へ移動します。慈覚大師御母公の墳墓は、岩舟町上岡の現在は廃寺となっている、妙光山実相院医王寺跡に祀られています。現在は新しく覆い屋根も建てられています。丁度周辺には梅の花が雨に濡れていました。
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(慈覚大師御母公の墓、実相院跡)           
此の頃に成ると、朝から気を揉んでいた雨が次第に強く降り出し、雨合羽や傘を広げる状況になって来ました。東北自動車道岩舟ジャンクションの東側を北に歩いて行くと、前方に雨雲が低く垂れこむ中、佐野市との境を成す、標高323.7mの諏訪岳が浮かんでいます。諏訪岳の南東側山麓に、本日の最終目的地、慈覚大師円仁が9歳から15歳まで修行した天台宗の寺院、小野寺山転法輪院大慈寺と、国指定文化財、延喜式内社、村檜神社が有ります。
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(標高323.7mの諏訪岳、手前岩舟ジャンクション)(雨の中小野寺を目指す)
東北自動車道東側側道脇に祀られている、小野寺禅師太郎道綱の墓を見学。保元元年(1156)に小野寺義寛がこの地に館を構えた。墓の主禅師太郎道綱は小野寺城二代目として小野寺氏を大成させ、鎌倉に幕府を開いた源頼朝の下で活躍、特に頼朝の奥州征伐の時に活躍して、奥州新田郡一帯の地頭職として東北に小野寺氏が栄えたとの説明等が有りました。また現在小野寺氏の館跡は東北自動車道が貫通した事で、西側の道路脇に小さな「小野寺城跡と刻した石碑が建てられていました。
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(小野寺禅師太郎道綱の墓)         (小野寺城跡と記す石碑が建っている)
小野寺山大慈寺に到着しました。大慈寺は寺伝によると天平九年(737)行基菩薩の開基、二世は道忠、三世は広智と伝えます。慈覚大師円仁は、広智の弟子としてこの寺で15歳まで修業の後、連れられて比叡山に登り、最澄の弟子となりました。円仁はその後承和五年(838)最後の遣唐使で唐に渡り、五台山や長安で修行して、約9年半後に無事に帰国しました。この間の旅の記録を「入唐求法巡礼行記」と言う日記に記しました。この日記は、玄奘三蔵が記した「大唐西域記」、マルコポーロによる「東方見聞録」と並んで、世界三大旅行記と言われているそうです。又、本堂裏手高台に建てられた相輪橖は、弘仁六年(815)最澄が国家鎮護の為に全国の六ヶ所に建てたものの一つです。現在の相輪橖は享保十年(1725)、回国修行の名僧常心が大慈寺を訪れた時に復元されたという事です。
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(雨に濡れる大慈寺山門)              (相輪橖の上部)
小野寺から栃木へは、栃木市の「ふれあいバス」で、「村檜神社入口」14時47分発に乗って帰る計画の為、最後の見学地の、村檜神社に急いで向かいました。
年輪を重ねた多くの杉の参道の奥、石段を登った上に祀られている村檜神社本殿は、室町時代後期の建物で三間社春日造り、檜皮葺きの屋根は50年に一度葺き替えを行うという。最近では平成18年に行われたと、その時の檜皮のサンプルと固定する為に用いる竹釘を、講師の方から見せて頂いた。
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(国指定重要文化財の村檜神社本殿)  (社殿前に奉納された絵馬、緑色のダルマと瓜の絵)
本日、スタート地点の岩舟駅から、ずっと一緒に歩いて説明をしてくれた講師の方と、村檜神社前で分かれて、ふれあいバスに乗って栃木に戻りました。今日一日、岩舟町の歴史の一部ですが色々と教えて頂きました。ここに書けた内容は、その中のほんの一部に過ぎません。私の頭脳ではとても受付けられません。ここに書けた内容の殆んども、講師の方が予め用意して渡されたレジメに依りました。ほとんどが雨の降る中の歴史ウォーキングとなりましたが、雨天の中でしか見られない景色も有ったような気がします。
本日の総歩数は、22,234歩となりました。

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