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栃木市平井町内を流れる六か村用水 [栃木市の河川と橋]

栃木の市街地の西方、太平山の東麓を北から南に流れる永野川、その流れは私が見て来ている半世紀においては、その川筋は殆ど変っていません。しかし明治に成って作られた地形図を追っていくと、幾つかの大きな変化を見る事が出来ます。
その一つは、太平山神社表参道に向かう道筋に架かる「二杉橋」の下流域、現在の平井町と片柳町との境界を流れ、大平町下皆川に至る永野川は、昭和の初めごろまでは、二杉橋から250メートル程下流の所で、大きく流れを東の方向に変えた後、左右に大きく蛇行を繰り返し、昨年9月の台風によって大きな被害を受けて、使用中止となった「栃木市営片柳住宅」の北側から西側へと流れ、現在の川に合流しています。と言うより、元々の永野川の流れが、そのように大きく蛇行して流れていたものを、昭和の初期に河川改修によって、その間をほぼ真直ぐ開鑿して、現在の様に変えたのでした。
旧永野川河道1.jpg旧永野川河道2.jpg
(栃木環状線の東側に残る、永野川の旧河道)    (片柳市営住宅北側の永野川旧河道)
国土地理院の2万5千分1の地形図「栃木」では、昭和22年9月発行分でも、永野川の流れは旧河川の流れが描かれています。
平井町の南東部、大平町下皆川との境界近くに小さな共同墓地が有ります。その墓地の中に小さな記念碑が建てられています。碑文を確認すると≪栃木町大字平井字柴崎平井共有恵光院墓地は昭和10年1月24日永野川河線改修工事の為河線敷と為れるを以てこれを廃止し同月30日栃木町有として■地に新設改葬せるものなり   栃木町長長谷川調七識≫と刻されています。
恵光院墓地1.jpg恵光院墓地2.jpg
(平井町南東部の共同墓地内に建つ、恵光院墓地改葬記念碑)
この石碑に刻された「恵光院墓地」はどこに有ったのか。
昭和22年発行の地図を見ると、二杉橋の直ぐ下流の所で永野川から分岐して真直ぐに流れる用水堀が描かれています。この用水堀に現在永野川にかけられている「大柳橋」を渡って来た道筋に小さな橋が架かっています。現在の橋は何の表示も有りませんが、35年ほど前私が見た以前の橋の親柱には、「恵光院橋」と確かに刻されていました。そしてその橋の北東側橋詰に墓地の地図記号を確認出来ました。
恵光院橋1.jpg恵光院橋2.jpg
(大柳橋西側交差点付近、六か村用水に架かる現在の恵光院橋と高欄)
現在は河川改修により作られた新しい永野川の右岸の土手になっている所になります。
現在も永野川の右岸の西側を、永野川とほぼ並行して流れるこの用水堀は、「六か村用水」と呼ばれる、農業灌漑用水堀です。
六か村用水2.jpg
(永野川右岸土手上より下流側を撮影。左永野川、右の道路沿いに六か村用水。)
六か村用水1.jpg
(恵光院橋上より六か村用水上流方向を撮影)
「六か村用水」については、大平町誌に記されています。
≪下皆川村・富田村など六か村用水≫と題して、以下の様に説明されています。
≪二本杉川の二杉というところに、大口堰という堰を設けて片柳村の用水をひき、さらにその川下の下皆川村境の和田山に、小堰という堰を設けて、下皆川村・富田宿を経て古橋村・沖島村・赤塚村・曲ヶ島村をうるおす用水を引き、これを六ヵ村用水と呼んでいた。≫

河川改修後の新しい川筋に架けられた「大柳橋(だいりゅうばし)」が有る。現在の橋は昭和65年2月の竣工。橋長54メートル、幅員9.25メートルと立派に架け替えられた。
大柳橋2.jpg大柳橋3.jpg
(大柳橋の東橋詰より西方向を。奥に太平山を望む)(上流側左岸より大柳橋を望む)
大柳橋周辺の様子、永野川の川筋の変化を概略図に表わしてみました。現状の地図上に昭和初期前の旧永野川の河道を朱書きで追記して、河川改修前後の姿を表現してみました。
二杉橋下流域の永野川の流れの変化.jpg
(平井町・片柳町・大平町下皆川境界付近の永野川の様子)

以下に現在も見られる六か村用水の風景を載せてみました。
六か村用水6.jpg
(二杉橋下流側に設けられた堰、右奥に見えるのが「二杉橋」)
六か村用水7.jpg六か村用水5.jpg
(堰の上流部右岸に見える取水口)  (六か村用水堀の上流端。太平沢の水も注ぎこむ)
大柳橋1.jpg
(大柳橋下流、下皆川境界部に設けられた堰、後方に大柳橋を望む)
六か村用水3.jpg六か村用水4.jpg
(大平町下皆川入口の六か村用水に設けられた、分岐水門)(下皆川街道脇の暗渠部水門)
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