横山郷土館へ [建物]
栃木市の市街地の真中を南から北へ進む旧日光例幣使街道、その旧栃木宿の少し北に寄った上町(現在の万町)に、近龍寺門前への入口となる交差点が有ります。その交差点を近龍寺方向とは逆に西に折れ、旧市役所通りを約100メートル程行くと、巴波川に架かる「常盤橋」の上に出ます。
今、この橋の上から巴波川(うずまがわ)の下流方向を望むと、右岸手前に大きな石蔵二つを構える建物を見る事が出来ます。この建物が今回訪問する「横山郷土館」になります。
(常盤橋の上から巴波川右岸に建つ「横山郷土館」を望む)
まず、建物の正面全体が見られる様、巴波川の左岸川岸の道を少し下って、対岸から眺めて見ます。
左右両側にガッシリとした石蔵、その間が切妻屋根を持つ間口7間(約12.7メートル)の店舗部分となっています。この建築様式は「両袖切妻造り」と言い、日本の商家では唯一の建物として保存されていて、平成10年に国登録有形文化財となっています。
(巴波川の対岸より「横山郷土館」正面を望む)
「常盤橋」を渡ると直ぐ左手に又一つ小さな橋が架かっています。その橋の親柱には「入舟橋」と刻されています。「入舟橋」の架かる堀割は、明治の初期に巴波川右岸から100メートル程西側に、初めて栃木県の県庁が建設されましたが、その県庁敷地の周囲を幅2メートル程の堀割(県庁堀)が造られました。その県庁堀と巴波川との間を開鑿して漕渠とし、巴波川から漕渠を通って県庁堀まで舟で荷物を運べるようにしたものです。明治のはじめまではこの県庁が造られた辺りは、「薗部村鶉島(そのべむらうずらじま)」と言いましたが、明治後期には「入舟町」と変わって行きます。
(県庁堀と巴波川を結ぶ漕渠。手前は「中の橋」、黒塀は「横山郷土館」奥に「入舟橋」)
横山家の初代「横山定助」氏は、茨城県石岡市生まれ、幕末で揺れる水戸藩を12才で出て、草鞋を売りながら栃木にたどり着いたと云います。栃木で荒物商に見習いに入った後、明治5年に唐物屋を開店させます。その後、栃木県特産の野州麻を取り扱う麻問屋として栄えました。明治40年発行の「栃木県営業便覧」の栃木町を見て行きますと、大通り万町(旧日光例幣使街道上町)に明治座への横道が有りその角は現在「下野新聞社栃木支局」となっていますが、その場所から通りの向かい側、現在新しい栃木市役所の建つ辺りに、「麻苧問屋 眞縄商店 横山定助」の名前を探すことが出来ます。又、現在の建物の有る巴波川右岸、常盤橋の付近にはその名前を見る事は出来ません。ただ川岸の道の1本裏手の道、県庁堀漕渠に架かる「中の橋」の南東橋詰に、小さく「横山別荘」の文字が載っていました。この営業便覧は現在の横山邸が造られる以前と考えます。恐らく現在の入舟町辺りは、栃木県庁が造られた以降、急速に開発され多くの人が移り住むようになったものと思われます。
(横山郷土館の裏手、背の高いコンクリート塀の上、庭木がそびえる。奥が「中の橋」)
横山定助氏も巴波川と県庁堀への漕渠とが交わるこの場所を、新たな店舗の場所と見て、この地に約1,800坪(5,950㎡)に及ぶ広大な土地を入手し、本格的邸宅を構えたのが、現在の「横山郷土館」となりました。
「入舟橋」を渡り、「横山郷土館」の前に向かいます。
店舗正面中央軒先に残る瓦斯灯。その向って右側半分が麻苧(あさお)問屋で、出入口は大きな四枚の格子の附いた引違戸が開かれています。左側半分が明治32年に設立された「栃木共立銀行」となっています。開いている右側の入口から中に入ります。
(写真は昨年の「栃木・蔵の街かど映画祭」にて撮影)
建物の中は明治時代当時の麻苧問屋の様子が再現され、奥の帳場が受付。受付に座っている女性に入館料300円を払って館内を見学する事にします。
麻苧問屋の左隣り「栃木共立銀行」の部分もやはり当時の様子が再現され、事務机の上にはスタンプや帳簿類、部屋の隅には古くて厳めしい金庫が置かれています。
(左手、銀行の事務室内の様子) (右手、麻苧問屋店先の様子)
左右の石蔵を覗いて見ます。右側の石蔵は当時は商品の大麻を保管していた「麻蔵」です。左側は「文庫蔵」として使われていました。現在は展示場にして昔実際に使っていた、家具調度品や収集した書画骨董類が並んでいます。石蔵の外壁は、水や火に強い鹿沼産の「深岩石」が積まれています。麻蔵が上棟した年は明治42年、文庫蔵は翌明治43年の上棟で、文庫蔵には腰回りに岩舟石を配し、軒回りは赤煉瓦が使われています。左右同じでは有りません。
(左手の石蔵「文庫蔵」外観。軒回りに赤煉瓦) (右手の石蔵「麻蔵」)
(文庫蔵の窓から見える風景) (麻蔵の2階窓から見える風景)
石蔵を見学した後、靴を脱ぎ奥の座敷を見学します。店舗の奥には大広間や新座敷が連なっています。大広間脇の縁側に座って、座敷の裏手に広がる庭園を暫らく眺めました。多くの石燈籠や巨大な銘石が配置され端正に整えられた植木の緑が心を落ち着かせるようです。左手奥の茶室から三味線に合わせて、長唄の御稽古をされているのか、それが一層心地よくしてくれます。
(風情のある大広間) (大広間から裏手の庭園を眺める)
中庭に下りて、ツツジやアヤメの咲く庭園内をゆっくりと散策します。大正7年の建築とする離れ(洋館)が有ります。外観はハーフティンバー形式と言う、壁面に柱や梁が露出する構造になっています。内部は和洋折衷の建物です。
(庭園の北西隅に建つ洋館。庭内は丁度ツツジやアヤメが彩りを添えていました。)
共立銀行の出入口はそれなりに戸締りが頑丈になっています。
(外側より見た共立銀行の出入口) (銀行のガラス戸に浮かぶ共立銀行の文字)
出入口横の窓ガラスに、明治時代の職人技が見られる、麻の葉模様の磨りガラスを見る事が出来ます。1枚1枚手で磨りあげている為、良く見ると少しづつ模様が違うのが分かります。
(麻の葉模様が浮かぶ、銀行の窓に使われている磨りガラス)
店先の瓦斯灯に灯がともる頃
(2011年2月5日撮影。灯がともった横山郷土館の瓦斯灯)
巴波川の岸辺に二つの石蔵が闇の中に浮かんでいました。
(2015年7月26日撮影。夕闇が迫る横山郷土館前)
今回参考にしたのは以下のパンフレットになります。
今、この橋の上から巴波川(うずまがわ)の下流方向を望むと、右岸手前に大きな石蔵二つを構える建物を見る事が出来ます。この建物が今回訪問する「横山郷土館」になります。
(常盤橋の上から巴波川右岸に建つ「横山郷土館」を望む)
まず、建物の正面全体が見られる様、巴波川の左岸川岸の道を少し下って、対岸から眺めて見ます。
左右両側にガッシリとした石蔵、その間が切妻屋根を持つ間口7間(約12.7メートル)の店舗部分となっています。この建築様式は「両袖切妻造り」と言い、日本の商家では唯一の建物として保存されていて、平成10年に国登録有形文化財となっています。
(巴波川の対岸より「横山郷土館」正面を望む)
「常盤橋」を渡ると直ぐ左手に又一つ小さな橋が架かっています。その橋の親柱には「入舟橋」と刻されています。「入舟橋」の架かる堀割は、明治の初期に巴波川右岸から100メートル程西側に、初めて栃木県の県庁が建設されましたが、その県庁敷地の周囲を幅2メートル程の堀割(県庁堀)が造られました。その県庁堀と巴波川との間を開鑿して漕渠とし、巴波川から漕渠を通って県庁堀まで舟で荷物を運べるようにしたものです。明治のはじめまではこの県庁が造られた辺りは、「薗部村鶉島(そのべむらうずらじま)」と言いましたが、明治後期には「入舟町」と変わって行きます。
(県庁堀と巴波川を結ぶ漕渠。手前は「中の橋」、黒塀は「横山郷土館」奥に「入舟橋」)
横山家の初代「横山定助」氏は、茨城県石岡市生まれ、幕末で揺れる水戸藩を12才で出て、草鞋を売りながら栃木にたどり着いたと云います。栃木で荒物商に見習いに入った後、明治5年に唐物屋を開店させます。その後、栃木県特産の野州麻を取り扱う麻問屋として栄えました。明治40年発行の「栃木県営業便覧」の栃木町を見て行きますと、大通り万町(旧日光例幣使街道上町)に明治座への横道が有りその角は現在「下野新聞社栃木支局」となっていますが、その場所から通りの向かい側、現在新しい栃木市役所の建つ辺りに、「麻苧問屋 眞縄商店 横山定助」の名前を探すことが出来ます。又、現在の建物の有る巴波川右岸、常盤橋の付近にはその名前を見る事は出来ません。ただ川岸の道の1本裏手の道、県庁堀漕渠に架かる「中の橋」の南東橋詰に、小さく「横山別荘」の文字が載っていました。この営業便覧は現在の横山邸が造られる以前と考えます。恐らく現在の入舟町辺りは、栃木県庁が造られた以降、急速に開発され多くの人が移り住むようになったものと思われます。
(横山郷土館の裏手、背の高いコンクリート塀の上、庭木がそびえる。奥が「中の橋」)
横山定助氏も巴波川と県庁堀への漕渠とが交わるこの場所を、新たな店舗の場所と見て、この地に約1,800坪(5,950㎡)に及ぶ広大な土地を入手し、本格的邸宅を構えたのが、現在の「横山郷土館」となりました。
「入舟橋」を渡り、「横山郷土館」の前に向かいます。
店舗正面中央軒先に残る瓦斯灯。その向って右側半分が麻苧(あさお)問屋で、出入口は大きな四枚の格子の附いた引違戸が開かれています。左側半分が明治32年に設立された「栃木共立銀行」となっています。開いている右側の入口から中に入ります。
(写真は昨年の「栃木・蔵の街かど映画祭」にて撮影)
建物の中は明治時代当時の麻苧問屋の様子が再現され、奥の帳場が受付。受付に座っている女性に入館料300円を払って館内を見学する事にします。
麻苧問屋の左隣り「栃木共立銀行」の部分もやはり当時の様子が再現され、事務机の上にはスタンプや帳簿類、部屋の隅には古くて厳めしい金庫が置かれています。
(左手、銀行の事務室内の様子) (右手、麻苧問屋店先の様子)
左右の石蔵を覗いて見ます。右側の石蔵は当時は商品の大麻を保管していた「麻蔵」です。左側は「文庫蔵」として使われていました。現在は展示場にして昔実際に使っていた、家具調度品や収集した書画骨董類が並んでいます。石蔵の外壁は、水や火に強い鹿沼産の「深岩石」が積まれています。麻蔵が上棟した年は明治42年、文庫蔵は翌明治43年の上棟で、文庫蔵には腰回りに岩舟石を配し、軒回りは赤煉瓦が使われています。左右同じでは有りません。
(左手の石蔵「文庫蔵」外観。軒回りに赤煉瓦) (右手の石蔵「麻蔵」)
(文庫蔵の窓から見える風景) (麻蔵の2階窓から見える風景)
石蔵を見学した後、靴を脱ぎ奥の座敷を見学します。店舗の奥には大広間や新座敷が連なっています。大広間脇の縁側に座って、座敷の裏手に広がる庭園を暫らく眺めました。多くの石燈籠や巨大な銘石が配置され端正に整えられた植木の緑が心を落ち着かせるようです。左手奥の茶室から三味線に合わせて、長唄の御稽古をされているのか、それが一層心地よくしてくれます。
(風情のある大広間) (大広間から裏手の庭園を眺める)
中庭に下りて、ツツジやアヤメの咲く庭園内をゆっくりと散策します。大正7年の建築とする離れ(洋館)が有ります。外観はハーフティンバー形式と言う、壁面に柱や梁が露出する構造になっています。内部は和洋折衷の建物です。
(庭園の北西隅に建つ洋館。庭内は丁度ツツジやアヤメが彩りを添えていました。)
共立銀行の出入口はそれなりに戸締りが頑丈になっています。
(外側より見た共立銀行の出入口) (銀行のガラス戸に浮かぶ共立銀行の文字)
出入口横の窓ガラスに、明治時代の職人技が見られる、麻の葉模様の磨りガラスを見る事が出来ます。1枚1枚手で磨りあげている為、良く見ると少しづつ模様が違うのが分かります。
(麻の葉模様が浮かぶ、銀行の窓に使われている磨りガラス)
店先の瓦斯灯に灯がともる頃
(2011年2月5日撮影。灯がともった横山郷土館の瓦斯灯)
巴波川の岸辺に二つの石蔵が闇の中に浮かんでいました。
(2015年7月26日撮影。夕闇が迫る横山郷土館前)
今回参考にしたのは以下のパンフレットになります。
2016-05-02 19:13
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