栃木市旭町神明宮境内の石灯籠 [栃木市の神社]
栃木市旭町に鎮座している「神明宮」は、私の子供の頃からの遊び場の一つでした。現在では正月、家族揃っての初詣に行くのが恒例になっています。
(神明宮参道入口の大鳥居、正面奥に神明宮の社殿を望む)
大きな鳥居を潜って参道に入ると、参道の両側に石灯籠が対と成って、社殿まで4対建てられています。それらの燈籠と少し様子の違う石灯籠がただ一基、丁度手水舎の反対側に建てられています。
(参道車止め前より社殿を撮影。右手手前は手水舎、左手手前が目的の石灯籠)
この石灯籠について、社務所にて配布している「神明宮略誌」の中で、[境内建造物]として、≪琴平宮奉献の石燈籠(亀田鵬斎揮毫)壱基≫と記されています。
(琴平宮奉献石灯籠) (神明宮略誌の表紙)
この石灯籠について、もう少し細かく見て行きます。上部から順に見て行きますと、
(石灯籠の最上部) (屋根の部分、上部に文字が確認出来る)
最上部は擬宝珠の形の石が見えますが、石の色や艶の具合を見ると、この部位だけ新しく取り付けられた様です。以前撮影した写真を見ると形が変わっています。
(昔、撮影した石灯籠、最上部の形状が異なる)
その下の屋根の部分をカメラをズーミングして確認すると、六分割した部分の一つ一つに文字が刻まれています。参道の入口方向を正面とし、時計回りにその文字を読んでみると、「金比羅大権現」と彫られている事が分かりました。
①正面部分「金」の文字 ②正面の左隣り「昆」の文字
③「羅」の文字 ④「大」の文字
⑤「權」の文字 ⑥「現」の文字
屋根の下に「火袋」、その下には龍の姿が刻されています。
(屋根の下「火袋」の部分) (火袋の下側、龍が刻されている)
龍の下側にひとまわり大きく「象」が刻されています。
(龍の下には、体を丸めて休んでいる「象」が刻されています)
更にその下側の台座の部分、四面に刻された文字を見て行きます。文字は国語の教科書に記されるように、右から左に刻されていますが、その内容は、
まず正面に位置する面、「常明神燈」。その右側面には、「五穀豊穣」
(正面:常明神燈) (右側面:五穀豐饒)
そして、左側面の文字は「慈航安穏」。そしてうしろ側の面には、「文化十四年丁丑秋九月十日 立之 鵬斎興書」と刻されています。
(左側面:慈航安穏) (後面:建立年月日と鵬齊の名前)
「文化14年」と言うのは、今から199年前の1817年になります。「鵬斎」とは、江戸時代、化政文化の書家・儒学者で、栃木町に来遊していた様です。
この石燈籠は、台座に刻された日付に有る様に、文化十四年(1817)に建立されたものですが、その後慶応二年(1866)にその下に更に石の台座を組んで高くしていました。
その追加された下の台座には、多くの人名が連ねて刻されています。「太々講中」の文字も読み取る事が出来ました。台座裏面左端の部分に「願主」と有り、少し間を空けて「清水儀左衛門」「押田彌次郎」の名前が確認できます。
(後ろ側台座の左隅の「願主」の文字と人名)(台座積石後ろ側左上隅の石に「石工」の名前)
その下台座の石組みの左上端の石の表面を少し削り、「石工」の文字の下側に「野口藤右衛門」「宮田清兵衛」の名前を何とか確認できます。
何気なく見過ごしてしまう石燈籠ですが、ジックリと観察すると、色々と発見が有るものです。
※人名など漢字の判読が難しい所も有り、違っているかも知れませんが。
(神明宮参道入口の大鳥居、正面奥に神明宮の社殿を望む)
大きな鳥居を潜って参道に入ると、参道の両側に石灯籠が対と成って、社殿まで4対建てられています。それらの燈籠と少し様子の違う石灯籠がただ一基、丁度手水舎の反対側に建てられています。
(参道車止め前より社殿を撮影。右手手前は手水舎、左手手前が目的の石灯籠)
この石灯籠について、社務所にて配布している「神明宮略誌」の中で、[境内建造物]として、≪琴平宮奉献の石燈籠(亀田鵬斎揮毫)壱基≫と記されています。
(琴平宮奉献石灯籠) (神明宮略誌の表紙)
この石灯籠について、もう少し細かく見て行きます。上部から順に見て行きますと、
(石灯籠の最上部) (屋根の部分、上部に文字が確認出来る)
最上部は擬宝珠の形の石が見えますが、石の色や艶の具合を見ると、この部位だけ新しく取り付けられた様です。以前撮影した写真を見ると形が変わっています。
(昔、撮影した石灯籠、最上部の形状が異なる)
その下の屋根の部分をカメラをズーミングして確認すると、六分割した部分の一つ一つに文字が刻まれています。参道の入口方向を正面とし、時計回りにその文字を読んでみると、「金比羅大権現」と彫られている事が分かりました。
①正面部分「金」の文字 ②正面の左隣り「昆」の文字
③「羅」の文字 ④「大」の文字
⑤「權」の文字 ⑥「現」の文字
屋根の下に「火袋」、その下には龍の姿が刻されています。
(屋根の下「火袋」の部分) (火袋の下側、龍が刻されている)
龍の下側にひとまわり大きく「象」が刻されています。
(龍の下には、体を丸めて休んでいる「象」が刻されています)
更にその下側の台座の部分、四面に刻された文字を見て行きます。文字は国語の教科書に記されるように、右から左に刻されていますが、その内容は、
まず正面に位置する面、「常明神燈」。その右側面には、「五穀豊穣」
(正面:常明神燈) (右側面:五穀豐饒)
そして、左側面の文字は「慈航安穏」。そしてうしろ側の面には、「文化十四年丁丑秋九月十日 立之 鵬斎興書」と刻されています。
(左側面:慈航安穏) (後面:建立年月日と鵬齊の名前)
「文化14年」と言うのは、今から199年前の1817年になります。「鵬斎」とは、江戸時代、化政文化の書家・儒学者で、栃木町に来遊していた様です。
この石燈籠は、台座に刻された日付に有る様に、文化十四年(1817)に建立されたものですが、その後慶応二年(1866)にその下に更に石の台座を組んで高くしていました。
その追加された下の台座には、多くの人名が連ねて刻されています。「太々講中」の文字も読み取る事が出来ました。台座裏面左端の部分に「願主」と有り、少し間を空けて「清水儀左衛門」「押田彌次郎」の名前が確認できます。
(後ろ側台座の左隅の「願主」の文字と人名)(台座積石後ろ側左上隅の石に「石工」の名前)
その下台座の石組みの左上端の石の表面を少し削り、「石工」の文字の下側に「野口藤右衛門」「宮田清兵衛」の名前を何とか確認できます。
何気なく見過ごしてしまう石燈籠ですが、ジックリと観察すると、色々と発見が有るものです。
※人名など漢字の判読が難しい所も有り、違っているかも知れませんが。
2016-06-23 23:37
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