栃木蔵の街、大通りに対して斜めを向く店舗の訳は? [建物]
栃木の街に住んで60年以上になるが、この街の事について知らない事が沢山有ります。
その一つが、栃木市街地の中央を南北に通過する、旧日光例幣使街道に面する建物の向きが、何故か通りに対して斜めを向いている店舗が多いのです。
栃木は、旧日光例幣使街道の宿場町の一つですが、街道の両側には短冊状に屋敷割された建物が続いています。現在も江戸後期から明治時代に建てられた多くの建物が残って、昔の風情を今も感じられる「蔵の街」となっています。
通りに対して斜めを向く建物を紹介すると、
(五十畑荒物店前より大通り北方向を望む) (本澤屋店舗前の様子)
(栃木市観光協会案内所前) (北蔵Cafeひがの店舗前)
(阿部呉服店の店舗前) (とちぎ蔵の街観光館の前)
(小江戸そば好古壱番館の前) (快眠館大二、店舗前)
(人形のやまとや、店舗前) (山本有三ふるさと記念館の前)
(栃木グランドホテル前) (とちぎ歌麿館の前)
(なすび食堂、店舗前) (下野新聞社栃木支店前)
(ホテルサンルート栃木前)
以上、紹介した建物、店舗は全て大通りに対して東側に建っています。
通りを南側から北方向に向かって撮影をした写真がほとんどですが、どの建物の前も奥から手前にかけて、店舗の前のスペースが広がっているのが確認できます。
建物の中には、「栃木グランドホテル」や「ホテルサンルート栃木」のビルの様に新しく建てられたものでも、敷地事態が両サイドの屋敷割に沿っている為、自ずと通りに対して斜めになっています。
もちろん、ビルを変形にして、通りに沿った面を造る事は可能でしょうが、建設時にその事に関して、何か検討をされたものか、第三者の私が知る由も有りません。
一方、大通りの西側に建つ店舗を確認してみると、殆んど東側の様な通りに対する傾きは認められず、通りに沿って建てられています。手元に有った2枚の写真を添付します。
(ジェラテリア桜蔵の前) (出井書店の前)
なぜこのような状態になっているのか、歴史的に何か目的が有って、意識的に造られたものか、その由来について私なりにこれまで「栃木市史」などの、郷土の歴史書の中に何か記載されていないか、調べてみましたが、未だ確認出来ていません。
栃木市嘉右衛門町の旧日光例幣使街道沿いを中心とした地域が、国の重要伝統的建造物群保存地域に指定された時、同時に群馬県桐生市の「桐生新町」(現在の桐生市本町一丁目及び二丁目の全域並びに天神町一丁目の一部)も指定されています。
今年の3月に訪問をして、地元の観光ボランティアガイドさんの案内で、保存地区の町並みや文化財に指定された建物などを見て回りましたが、その時に頂いた「桐生新町の町並み」というリーフレットの中に、≪通りに対して傾いている建物≫とする説明が記されていました。
≪桐生新町の町並みは、天正19年(1591)に徳川家康の命を受け、代官大久保長安の手代、大野八右衛門により新たに町立ちされ、在郷町として発展して来ました。≫
≪町立てに際し、地区の北端に天満宮を遷宮し、ここを起点とい南北に約5間(約10m)の道(現在の本町通り)を造り、その両脇に間口6〜7間(約12m〜14m)奥行き40間(約80m)という短冊状の敷地割が施され、・・・(後略)≫
(桐生新町の町立ての起点として遷宮された天満宮社殿)
(桐生新町の町並み)
と栃木宿の屋敷割と同様の町並みとなっていますが、この桐生新町では≪敷地が通りに対し直行していないため、敷地に合わせて建てられた建物は通りに対し平行ではなく、建物の壁面が雁行している箇所があります。≫との説明となっています。
私個人としては、桐生新町の地形の様子が分かっていませんので、計画的に町づくりがなされたのに、なぜ敷地が通りに直行しない箇所が出来たのか疑問も残ります。中心となっている現在の本町通りが、南北の軸に対して約29度ほど南南西方向に傾いていますが、地形図を眺めるとその地理的要素が、ハッキリ確認できます。
桐生新町は、足尾山塊が南の関東平野に突き出た山の南西部の桐生川が流れる沢の中に位置している為、その沢の広がる南南西の方向が町を形成する自然な形だったと考えられます。
栃木の街並みも同様に地形的な要素が絡んでいたのか、これから更に調べて行きたいと感じました。
※今回参考にさせて頂いた資料は、「桐生市総合政策部重伝建まちづくり課」作成の「桐生新町の町並み」です。
(リーフレット「桐生新町の町並み」の表紙部分) (通りと敷地の関係を説明した部分)
その一つが、栃木市街地の中央を南北に通過する、旧日光例幣使街道に面する建物の向きが、何故か通りに対して斜めを向いている店舗が多いのです。
栃木は、旧日光例幣使街道の宿場町の一つですが、街道の両側には短冊状に屋敷割された建物が続いています。現在も江戸後期から明治時代に建てられた多くの建物が残って、昔の風情を今も感じられる「蔵の街」となっています。
通りに対して斜めを向く建物を紹介すると、
(五十畑荒物店前より大通り北方向を望む) (本澤屋店舗前の様子)
(栃木市観光協会案内所前) (北蔵Cafeひがの店舗前)
(阿部呉服店の店舗前) (とちぎ蔵の街観光館の前)
(小江戸そば好古壱番館の前) (快眠館大二、店舗前)
(人形のやまとや、店舗前) (山本有三ふるさと記念館の前)
(栃木グランドホテル前) (とちぎ歌麿館の前)
(なすび食堂、店舗前) (下野新聞社栃木支店前)
(ホテルサンルート栃木前)
以上、紹介した建物、店舗は全て大通りに対して東側に建っています。
通りを南側から北方向に向かって撮影をした写真がほとんどですが、どの建物の前も奥から手前にかけて、店舗の前のスペースが広がっているのが確認できます。
建物の中には、「栃木グランドホテル」や「ホテルサンルート栃木」のビルの様に新しく建てられたものでも、敷地事態が両サイドの屋敷割に沿っている為、自ずと通りに対して斜めになっています。
もちろん、ビルを変形にして、通りに沿った面を造る事は可能でしょうが、建設時にその事に関して、何か検討をされたものか、第三者の私が知る由も有りません。
一方、大通りの西側に建つ店舗を確認してみると、殆んど東側の様な通りに対する傾きは認められず、通りに沿って建てられています。手元に有った2枚の写真を添付します。
(ジェラテリア桜蔵の前) (出井書店の前)
なぜこのような状態になっているのか、歴史的に何か目的が有って、意識的に造られたものか、その由来について私なりにこれまで「栃木市史」などの、郷土の歴史書の中に何か記載されていないか、調べてみましたが、未だ確認出来ていません。
栃木市嘉右衛門町の旧日光例幣使街道沿いを中心とした地域が、国の重要伝統的建造物群保存地域に指定された時、同時に群馬県桐生市の「桐生新町」(現在の桐生市本町一丁目及び二丁目の全域並びに天神町一丁目の一部)も指定されています。
今年の3月に訪問をして、地元の観光ボランティアガイドさんの案内で、保存地区の町並みや文化財に指定された建物などを見て回りましたが、その時に頂いた「桐生新町の町並み」というリーフレットの中に、≪通りに対して傾いている建物≫とする説明が記されていました。
≪桐生新町の町並みは、天正19年(1591)に徳川家康の命を受け、代官大久保長安の手代、大野八右衛門により新たに町立ちされ、在郷町として発展して来ました。≫
≪町立てに際し、地区の北端に天満宮を遷宮し、ここを起点とい南北に約5間(約10m)の道(現在の本町通り)を造り、その両脇に間口6〜7間(約12m〜14m)奥行き40間(約80m)という短冊状の敷地割が施され、・・・(後略)≫
(桐生新町の町立ての起点として遷宮された天満宮社殿)
(桐生新町の町並み)
と栃木宿の屋敷割と同様の町並みとなっていますが、この桐生新町では≪敷地が通りに対し直行していないため、敷地に合わせて建てられた建物は通りに対し平行ではなく、建物の壁面が雁行している箇所があります。≫との説明となっています。
私個人としては、桐生新町の地形の様子が分かっていませんので、計画的に町づくりがなされたのに、なぜ敷地が通りに直行しない箇所が出来たのか疑問も残ります。中心となっている現在の本町通りが、南北の軸に対して約29度ほど南南西方向に傾いていますが、地形図を眺めるとその地理的要素が、ハッキリ確認できます。
桐生新町は、足尾山塊が南の関東平野に突き出た山の南西部の桐生川が流れる沢の中に位置している為、その沢の広がる南南西の方向が町を形成する自然な形だったと考えられます。
栃木の街並みも同様に地形的な要素が絡んでいたのか、これから更に調べて行きたいと感じました。
※今回参考にさせて頂いた資料は、「桐生市総合政策部重伝建まちづくり課」作成の「桐生新町の町並み」です。
(リーフレット「桐生新町の町並み」の表紙部分) (通りと敷地の関係を説明した部分)
2016-07-18 20:57
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0