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栃木の町並みについての疑問 [建物]

私の住んでいる「栃木」の街並みについて、幾つか疑問を持っている事が有ります。その疑問の一つについて、以前(2016年7月19日)ここで紹介をしていますが、街の中央を南北に貫く大通りに対し、通りの東側に面する店舗の多くが、店の向きが通りに対して少し斜めを向いて建てられています。それには何か訳が有るのか、偶然なのか必然なのか。
1軒2軒であればたまたまと言えるのですが、神明宮参道入口付近から、近龍寺参道入口付近までの店舗の多くが顕著に道路に対する傾き度合いが大きくなっています。
雁行する町並み.jpg
(建物が通りに対して斜めを向いている為、軒先がずれているのが見える)
但し大通りの東側全てと言う訳ではありません。倭町の東銀座通りの南側、富士屋さんから三桝屋本店さんの所に、軒を連ねる5棟の店舗について確認すると、通路に対して殆んど斜めになっていません。
三桝屋本店付近の町並み.jpg
(建物が通りに並行している為、店舗の軒先が連なっています)
私なりにこの現象について、幾つかの郷土史の文献を調べてみましたが、この疑問に答えるような記載は見つかりません。(もしかしたら見逃しているのかも知れませんが)
平成18年3月発行の「栃木の町並み景観:平成17年度観光資源保護調査」日本ナショナルトラスト編。(出版:日本ナショナルトラスト)と言う小冊子を栃木図書館の蔵書検索で見つけました。閉架書庫保管の為、図書館窓口で申請しなければ見る事は出来ません。その39ページ「大通り(旧例幣使街道)沿線の景観」の所に、次の様に記されています。≪また大通りに面する歴史的建造物の多くは、その敷地が通りに対してやや斜めに形成され、壁面線は道路に対して雁行しており、1.5mから3m程度のセットバック空地を持っている。この半公共的空間ともいえる空地をうまく演出することは街並み景観に大きく寄与することになる。先導的な好事例はいくつかみられる。≫と。そして好事例のひとつとして、本澤商店店舗前の写真が掲載され、「セットバック空地を活用した店先の演出」と説明書きが付してあります。
山本有三ふるさと記念館.jpg本澤商店店舗前の演出.jpg
(建物前のスペースが、右手が広くなっています)   (店舗前の三角スペースの演出)
ここでは店舗が通りに対して斜めになっているのは、「その敷地が通りに対してやや斜めに形成され」ている為と説明して終わっています。ではなぜ敷地が通りに対して斜めになったのか。その疑問に対する答えは有りません。
栃木の町が初めて形付けられたのは、天正年間に栃木町の西北西6・4kmに拠点を持っていた皆川氏の五代目皆川広照が、栃木町の南東部に栃木城を築いた時に、その城下町として巴波川の左岸(東側)に整備されたものです。この際、皆川広照は近龍寺や定願寺そして神明宮などを現在の地に移し町の要にしたと言われます。よく栃木の町は城下町として形成された為、交差する道路が微妙にずれて、見通しが効かないように造られていると言われますが、栃木町を描いた最も古いとされる宝暦9年((1759)の栃木町絵図を調べて見ると、街の中央を南北に貫通する例幣使街道(大通り)と交差する横道は、通りの西側の念仏橋に通ずる通りと、東側の横町に通ずる通りの1ヶ所のみで、確かに互いの横道は南北にずれています。
そして、その東側の横町付近の道路を見ると東西南北の通ずる4本の道路が丁字に突き当たる状態になっています。東に進む道は杢冷川に架けられた木橋の手前に設けられた「東の木戸」から城内村になります。北に進む道は近龍寺の南門に一直線に伸びています。南に進む道は直ぐその先で、定願寺の北門前に通じ、西へ進む通りは高札場近くの大通りに出ます。
以上の通りの他に、大通りの東側には近龍寺の参道と、定願寺の参道(馬場)の2本の通りが、描かれていました。
それ以外は、大通りから東西左右に短冊状の屋敷割がされた町並みが形成されているのが、確認できます。そしてこの「宝暦9年栃木町絵図」を見る限り、大通りと短冊状に仕切られた屋敷の敷地とは、通りの西側も問題の東側も斜めにはなっていないのです。ところがここに絵図と実際の町並みとの違いが有ったのです。
ここで、栃木町の道路1本1本の方向が理解しやすいように、パターン化して描いて、それぞれの通りの真北の方向に対する角度を測定、又大通りと横道との交差角度を調べました。
栃木市街地道路の変遷.jpg拡大図.jpg
(栃木市街地の道路図) (近龍寺参道入口拡大図)
 
するとまず気付く事は、絵図ではほぼ南北に描かれていた例幣使街道(大通り)が南から北に向うにつれて、東側に寄っています。大通り(例幣使街道)の真北に対する傾きを調べてみると以下の様になりました。
    ①室町の旧警察署前付近の大通りは、真北に対し1度34分の傾き。
    ②倭町の五十畑荒物店付近の大通りは、真北に対して、11度36分の傾き。
    ③万町の山本有三ふるさと記念館前は、真北に対して、16度09分の傾き。
    ④万町の歌麿館付近の大通りは、真北に対して、12度42分の傾き。
    ⑤万町の藤本陶器店付近の大通りは、14度01分の傾き。
又、近龍寺の参道の方向は、真北に対してほぼ直角(91度32分)と、東西方向を向いています。即ち、西方を向く近龍寺の参道は、山門の前から真直ぐ西に進んで、大通りに抜けている為、大通りと参道の交差角度は78度52分になっています。ここで、この参道と隣り合わせる屋敷割の敷地は、この参道とほぼ並行して仕切られる事に成る為、必然的に屋敷の敷地は通りに対して斜めになったものと推測されるのです。
同様に南側、定願寺参道の交差角度は89度30分、東横町通り85度10分と、脇道と大通りの交差角が直交状態に近い為、通りに対する屋敷の敷地の傾きが少なかった為、店舗の向きが斜めにならなかったと推測できます。
又、大通りの西側については、1本あった西横町への通りと、大通りとの交差角度は90度47分で、ほぼ直交状態になっています。又その後開通した他の脇道の大通りとの交差角度を測定しても、以下に示す通り、殆んど直交状態となっている事が分かります。
   A.市役所北側開運橋へ通じる通り(旧トロッコ道) : 92度52分
   B.常盤橋に通じる通り(旧市役所通り)       : 89度55分
   C.郷土参考館の北側の通り              : 91度40分
   D.倭橋へ通じる通り                   : 89度29分
疑問はさらに残ります。皆川広照が栃木の町立てを行った時、町の東側に近龍寺や定願寺、神明宮を配置しています。偶然かも知れませんが近龍寺から定願寺へ通ずる裏通りは、丁度真北に向かって通っています。近龍寺と定願寺の参道もほぼ真西を向いています。計画して造られた町並みであれば、大通りも真直ぐ北を向いて通せば、宝暦9年や天明7年に描かれた「栃木町絵図」の様に出来た筈なのです。
しかし、そうならずに北に向かって東に傾いた大通りの原因は、西側を流れる巴波川の流れの向きに左右されたのではないかと、勝手に想像するのです。先に掲示した「栃木市街地の道路図」を眺めると、巴波川の流れが町の北側で大きく東側に寄っている事が分かります。
利根川の流れを変更して江戸の町を築き上げた徳川家の様な、権力を有しなかった地方の皆川藩には、巴波川の流れを変える力も財力も無かったのかも知れません。
栃木城は慶長14年(1609)、皆川広照が改易された事で廃城となって、城下町としての栃木も19年間でその性格を失う事になりました。その後はそんな巴波川の舟運を基に発展を続けた事も不思議な巡り合わせだと感じます。
この推測は、全く私の勝手な想像で描いたシナリオに過ぎません。栃木の町には他にも多くの疑問を抱いています。又勝手に想像を膨らませたいと、考えています。

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