SSブログ

蚤の市通り、栃木市 [地図]

栃木市に「蚤の市通り」と呼ばれている通りが有ります。栃木市街地中央を南北に通る「蔵の街大通り」の西側をほぼ平行に通っている道路に付けられた名前です。現在の栃木市道11196号線に当たります。
第一回の蚤の市が開催されたのは昭和28年2月でした。
昭和55年(1980)2月の蚤の市の様子を撮影した写真を紹介します。
蚤の市1.jpg
蚤の市2.jpg蚤の市3.jpg
蚤の市4.jpg
蚤の市5.jpg

栃木の市街地では、その発展に合わせて多くの新しい都市計画道路が整備されてきました。
江戸時代、日光例幣使街道の宿場町だったころは、町の中央を例幣使街道(現在の大通り)が通っていましたが、横道は現在の様に多くは有りませんでした。江戸時代の天明七年(1787)に描かれた栃木町の絵図を見ても、通りの西側へ抜ける道路は巴波川に架かる「念仏橋」(現在の幸来橋)へ通ずる道(現在の銀座通り)の1ヶ所しか描かれていません。(もちろん絵図には描かれていない路地は、幾つも有ったと考えますが。)
それでは現在の「蚤の市通り」は、いつごろ整備されたのだろうか、ずいぶん前からそんな疑問に駆られていました。地元の方に尋ねれば簡単に解決をする事なのでしょうが、なかなかその機会も有りません。
そこで国土地理院発行の地形図を調べてみました。まず明治19年(1886)7月に発行された迅速測図を確認すると、大通りから西に抜ける横道は、4ヶ所現れています。銀座通りの他に、元の下都賀郡役所(現在の室町駐車場)への道、カシワヤ事務機店脇から倭橋へ抜ける道、そして常盤橋に抜ける旧市役所通りです。しかしこの地図にもまだ「蚤の市通り」は現れていません。
栃木の地形図上に初めて「蚤の市通り」が描かれたのは、昭和40年4月30日発行の2万5千分1の地形図に成ります。その前に発行された昭和22年9月30日の地形図には、まだ描かれていません。又、翌年の昭和23年6月8日に米軍によって撮影された、栃木市街地の航空写真の中にも、この「蚤の市通り」は現れていません。従って、「蚤の市通り」は昭和24年以降に整備された事が分かります。

栃木市観光協会が栃木市制15周年記念として、昭和26年9月1日に発行した、「栃木市鳥瞰図」が有りますが、その絵図には万町一丁目の裏通りの部分、倭橋から常盤橋の間に道路が描かれています。
蚤の市通り3.jpg
この「栃木市鳥瞰図」は現在も「栃木蔵の街観光館」にて購入出来る様です。
又、昭和28年1月20日発行の「栃木市政だより」の記事の中に、第9回栃木市議会臨時会報告が有りました。そこに、≪まず、会議は、さきの市議会において土木常任委員会に付託となっておりました万町二・三丁目大通り西側への平行道路新設されたいとの誓願について委員長の報告が有り、本道路が新設されることによって地元は勿論のこと、栃木市発展上にも裨益するところ大なるものがあるとして満場異議なくこれを採択し、≫と記されていました。
以上の情報から、「蚤の市通り」は昭和30年代に工事は進み開通されたものと考えます。

現在、蚤の市通りを歩いて見ると、道路脇歩道部分に蚤の市に出店するお店の区画割番号表示が付けられています。
番号1は一番南側、倭橋の東橋詰付近、元「静」という割烹のお店が有った前辺りで、番号60は現在の栃木市役所の裏手に有る、たこ焼き屋さん付近に有りました。更に北側の万町三丁目付近は番号は付けられていません。
蚤の市通り1.jpg
(現在の栃木市役所裏手となる、蚤の市通り)
蚤の市通り.jpg
(歩道部分の敷石に刻まれている、蚤の市出店区画の表示番号)
蚤の市通り2.jpg
(蚤の市通りの南の端、道路脇に残る石灯籠、近くに番号1の表示が有ります)

蚤の市通りの最北端部、万町三丁目櫻井肥料店裏手に道路開通に伴って、大町大杉神社裏手の湧水池より流れて、市役所の駐車ビル南側にて巴波川に落ちる水路に架けられた橋が有ります。竣功したのは昭和30年8月の表示が有ります。
この橋の名前には、この道路を開通させた当時の地元の人達の気持ちが表れています。
「萬盛橋(まんせいはし)」 萬町(よろずちょう)がこれから更に盛んになります様にと。
萬盛橋1.jpg萬盛橋2.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0