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人柱伝説「おゆわ淵」 [栃木市の河川と橋]

日本の各地に、「人柱」に関する伝説・民話が、語り継がれて来ていますが、その「人柱伝説」で有名なのは、摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部の一部)淀川に架かる「長柄橋」が有ります。この橋は弘仁三年(812)に初めて架設されたとするのが定説と成っていると云われます。
吉田巌編「橋のはなしⅡ」(技報堂出版)に、「長柄の人柱」の伝説について、「摂津名所図会」のものを紹介しています。
私はこれまで単に「雉も鳴かずば撃たれまい」のフレーズだけを何かで聞いて、家の近くの田んぼの中で、よく鳴き声をたてている雉を観察していましたが、この歌「物言わじ父は長柄の人柱 鳴かずば雉子も射たれざらまし」と云うもので、長柄橋の人柱と成ってしまった父親を持つ娘が、全く物を言わなかった事で、嫁ぎ先から離縁され、夫の送られて実家に帰る途中、雉が鳴いたのを聞いた夫がその雉を射止めた時に、その娘がこの歌を口にしたと言うものです。
父親が人柱に成ってしまった経緯は、長柄橋の架橋工事は難工事で、架けても直ぐ又流されるという事を続けていた為、この父親が「継の有る袴をはいている人を人柱にすればうまくゆく」と提案。ところが不幸にも自分の袴に継ぎが有った為、人身御供として水底に埋められてしまっていたのでした。
<雉も鳴かなければ気付かれる事も無く、射止められる事も無かった。>
<父親も人柱の提案をしていなかったら、そこで死ぬことは無かった。>と。

こうした人柱の伝説は、殆んどこのパターンに成っていて、犠牲に成るのは人柱を提案した本人や、その身内(娘)と成っています。

栃木市を流れる「巴波川」にも、同じような人柱伝説が有ります。
「おゆわ淵」と言うお話は、栃木市藤岡町部屋地区に伝わる物で、「とちぎの民話 第一集」日向野徳久編・㈱未来社発行の中に、「うずま川の人柱」の話が載っていて、その一つとして「おゆわ淵」が紹介されています。話の内容では、伝説としては多くの具体的な事柄が出て来ています。
何時:慶長三年(1598)2月、 どこで:部屋村涸沼堤防、 誰が:押切村の大久保唯一の14歳ばかりの娘<おゆわ>、どうなった:堤防工事の穴の中に生き埋めにされてしまった。
昔の事ですから本当に「人柱」が行われたケースも有った事は否定できませんが、この「おゆわ淵」の人柱の話も先に紹介した「長柄の人柱」の様な昔話を、地方の多くの人が伝え聞いて、地元の話として脚色して、その子供達に話して聞かせたもののひとつであると考えたいと思います。
「おゆわ淵」の話は、他の伝承では「部屋」「名主」「名主の娘、おゆわ」の名前が出て来ますが、何時か?という事に関しては「昔」とだけに成っています。時代が分かりませんから、「名主」も具体的に誰とは確定できません。
私は物語の地元に住んでいませんので、「おゆわ淵」が何処に有ったのか知りません。部屋地区を流れる巴波川の流域の何処かにそれらしき所が有ったのかも知れませんが、この川も長い月日の中でその姿を変えて来ているでしょうから、今それを特定する事は無理な話なのかもしれません。色々と地図や地元の書物などを調べていると、「村では小さな祠を建てて祀った」としており、大正7年に「おゆわ稲荷」だけは部屋地区の帯刀研修館の中に移転されたと記されています。(地元の方ならだれか、その「おゆわ稲荷」が祀られていたという場所を知っているのかも知れません)
帯刀研修館1.jpg
(おゆわ稲荷が移転された部屋地区の帯刀研修館)
「うずま川の人柱」の話には、もう一つの人柱伝説が紹介されています。その話は、「おゆわ淵」から一里半(6キロメートル)ばかり上流の、下初田村(現在の小山市下初田)というところにある「亀の子堰」に関するもので、内容的には「おゆわ淵」と同様です。
こちらの人柱と成ってしまうのは、やはり名主の幼い娘、名前を「かめ」と云いました。何度も何度も直してはまた切れてしまう「堰」の工事に、「これじゃ、賽の河原の石積みと同じこんだんべ」「ふんだ。」「むだだからやめとくべじゃねえか」とつぎちぎに働く手をやめてしまう。そのときひとりの老人が「やっぱし人柱でもたてなくっちゃなあ」とつぶやいてしまう。それを聞いたある村の名主が、「ええ事に気がついてくれた。それがよかんべ。」ということになり、名主のいう事に逆らえない状況に成って、結局いちばんはじめに弁当をとどけた者を人柱にすると決まってしまいます。ところが、皮肉なことに、一ばんはじめに弁当を持ってきたのは、「かめ」という名主の幼い娘。(あわてた名主は手を振って「戻れ戻れ」と必死で静止をするのを、娘は父親が「早く来い早く来い」と呼んでいるものと急いで駆けて来て、無残にも人柱と成ってしまう。)かわいそうな娘の名を堰の名として今に伝えています。
※小山市観光協会ホームページの中にも、「小山の伝説」にてこの「亀の子堰」の話も紹介されていましたので、参考にさせて頂きました。

私の悪い癖でこうした話の場所を、特定したくなるのですが、やはり地元では無いので分かりません。先ほどの「おゆわ淵」同様、小山市の方に聞けば良いのでしょうが。
小山市観光協会ホームページで紹介している「小山の伝説」に記されている内容をじっくりと読み直してみると。<巴波川の支流与良川の流れを取り入れた、生駒・下河原田・小袋・井岡・鏡・中里・寒川・迫間田などの水田をうるおすために設けられた。>と成っていますが、これらの地域は現在の巴波川の左岸(東側)で、与良川との間に分布しています。
私は「亀の子堰」の所在を当初、巴波川から現在の与良川に水を取り入れている堰の事と考えていましたが、この堰の有る場所は下初田よりかなり北側、上初田の更に北側に当たる大平町北武井に取水口が設けられています。
川島堰.jpg
(私がこれまで「亀の子堰」と勝手に決めていた「川島堰」、後方の橋は「寿橋」)
川島堰から取水した用水路.jpg川島堰記念碑.jpg
(取水口から出て巴波川左岸の堤防の脇を南流する用水路)  (川島堰改修記念碑)
「亀の子堰」は小山市下初田に有る筈として、見直してみると、下初田の南西部の巴波川左岸に取水口が有ります。
中村橋下流の堰.jpg
(下初田南西部の巴波川中村橋下流の堰、対岸の森は「大川島神社」)  
ここから取水された用水は南隣りの「生駒」との境界に沿って東側を大きく回り込んだ後、巴波川の左岸に沿って下流の本郷橋近くまで流れそこから南に流れを変えて、下河原田から小袋・井岡方面の水田を潤しています。こちらの用水路の方が、ロケーションとして合っているのではと、勝手に納得をしています。
小山市生駒の用水路.jpg巴波川廃川敷開田記念碑.jpg
(巴波川左岸を生駒方向に流れる用水路)  (水路脇に建つ「巴波川廃川敷開田記念碑」)
蔵前橋付近の水路.jpg蔵前橋親柱.jpg
(生駒で県道36号と交差する水路上流側を望む) (県道に架かる「蔵前橋」の親柱)
昭和40年頃の国土地理院発行の2万5千分も1の地形図を確認するとこの地域はまだ土地改良事業以前の状態で、水路が網の目の様になっていて、現在の様な畦道が直行する碁盤目の様な農地では有りません。もしかしたら「亀の子堰」は巴波川では無く、巴波川から分流した支流の更に分岐点で有った可能性も考えられ、結局「ここでは」と言う場所を特定できませんでした。

巴波川の幸来橋のたもとの「塚田歴史伝説館」では、全自動ハイテク人形が登場する、「巴波川悲話」というこれまで紹介したものと同じような「人柱伝説」のお話を、人形劇として見せています。
幸来橋と塚田歴史伝説館.jpg
(幸来橋と巴波川左岸に続く塚田歴史伝説館の土蔵と黒塀)
塚田歴史伝説館.jpg
(最初に塚田歴史伝説館の説明をする老婆の人形、手前の話を聞く男性も人形)
「人柱伝説」の電動人形劇は、撮影禁止でしたので、写真は有りません。

河川や橋梁には、こうした伝説が色々な形で語り継がれて来ています。


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