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入舟川(栃木市)の風景 [栃木市の河川と橋]

久しぶりに「栃木市の河川と橋」をテーマにしました。
「入舟川」と言う川が栃木市の市街地に有る事を、知らない人は以外と多いと思います。私自身もその川が「入舟川」と言う名前が有る事を最近に成って知りました。その川は長さは僅か250メートル程しか有りません。「入舟川」と呼ばれる通り、その川は栃木市入舟町内を流れています。
旧栃木県庁堀から巴波川との間を結ぶ漕渠(運河、全長約120メートル)が明治5年11月、栃木県最初の県庁舎の建設と共に開鑿されました。現在この漕渠には「学橋」が県庁堀との分岐点に、そして「入舟橋」が巴波川との合流点近くに、さらにもう一つ「中ノ橋」がその名の通り漕渠の中間点に架けられています。
巴波川と漕渠.jpg
(手前が巴波川、右端に覗いているのが常盤橋、左側の建物が「横山郷土館」、旧県庁堀と繋がる漕渠は写真右側の合流点から奥に向かっています。手前から「入舟橋」「中ノ橋」「学橋」が見えます。)
入舟川はこの「学橋」と「中ノ橋」の中間点にて、漕渠から分流して南側に流れている水路に付けられた名前です。
入舟川1.jpg入舟川0.jpg
(手前が旧県庁堀と巴波川を結ぶ漕渠、右手の建物は「栃木聖アルバン教会」、奥に向かって行く水路が「入舟川」です。右側の写真は昭和56年(1981)ころの風景、まだ木造の建物が建っていました。)
私はこの「入舟川」の事をかなり前から興味を持って調べていましたが、いまだにハッキリとした事が分かっていません。
何時ごろ何のために開鑿された水路なのか、又誰が作ったものなのか。漕渠から直角に分岐して直線的に南に流し、最終的に東に曲げて巴波川に合流させています。
明治19年7月発行、第一軍官地方二万分一迅速測図「栃木町」の中には、既に「入舟川」の流路が記載されています(名前は記されていません)。 そして北から南への流れが東方向に向きを変える所に「水車」の地図記号を確認出来ます。
又、明治23年11月に精行舎が発行した、「大日本博覧図」栃木県之部に、「栃木県下都賀郡栃木町 醤油味噌醸造 谷田吉右衛門」(※吉右衛門の吉の字は「士」では無く、土の字)の店舗全景が描かれた1枚が掲載されています。その図の中には巴波川沿い、幸来橋の北西側橋詰に、広い敷地にいくつもの土蔵が建ち並ぶ「谷田商店」が描かれていますが、その図の中にこの「入舟川」とおぼしき水路が描かれています。
もし興味が有りましたら栃木市図書館にて閲覧することが出来ます。
更に明治40年10月発行の「栃木県営業便覧」を調べて行くと、「入舟川」とする水路は全く描かれていませんが、先の迅速測図の中に水車の地図記号が記載されていた箇所付近に、「田名網水車」の名前が記されています。
「入舟川」は最初は水車を回すために新たに開鑿された水路だったのでしょうか?まだ疑問は完全に解消されていません。

「入舟川」には3ヶ所に、自動車も通行できる橋が架けられていますが、これらの橋の名前が又なかなか凝った名前が付けられているのです。これらの橋の名前を誰が考えて命名したのか、それが私がこの「入舟川」に興味を持った理由のひとつに成っていました。当然こちらもいまだに疑問のままですが。
上流側から見て行きますと、県庁堀の漕渠から分岐して、南に30メートルの所、栃木聖アルバン教会の南東側に当たる所に架かる小さな橋、この橋の親柱に橋名が刻されています。「忍橋」と。
忍橋親柱.jpg忍橋より上流側を.jpg
(「忍橋」と刻された橋の親柱、奥に見える時計塔の有る建物は旧栃木町庁舎、右側の写真は忍橋の上から上流側を撮影したもので、正面奥に見える石の鳥居は、神道栃木の「井上神社」参道入口に成ります。水路の右側は現在駐車場に成っていますが、明治の営業便覧には「船田別荘」と記されていました。)
現在の橋は昭和8年7月の竣功です。なぜ忍橋としたのでしょうか?1978年12月忍橋.jpg忍橋より下流側を.jpg
(昭和53年撮影の忍橋)         (忍橋の上から下流側を望む、水路は真直ぐ南へ)
私が小さい頃、箱森の家から入舟町の父親の実家に行くときは、何時もこの橋を自転車で通りましたが、この通りは脇道的な存在で通行量はあまり無かった記憶が有ります。今もこの道路を通る人は少ない気がします。この橋を渡った東側は横山家の高いコンクリート製の塀に突き当たります。
横山家裏手.jpg
(忍橋の東側、横山郷土館裏手のコンクリート製の高い塀)

入舟川に架かる二つ目の橋は、忍橋から135メートル程下った所に架かる「寶橋」に成ります。この橋は巴波川に架かる「倭橋」から西へ中野病院方向に向かう道路に架けられています。
寶橋.jpg寶橋親柱.jpg
(寳橋の架かる道を東に行くと巴波川の倭橋に出ます)(「寶橋」と大きく刻された親柱)
現在の寶橋の架設年は昭和7年4月で、忍橋の竣功より1年早く架けられています。橋の北東側には栃木で2番目に開設された「いりふね保育所」が有りますが、明治の栃木営業便覧を見ると、「栃木商業会議所」とか「栃木社交俱楽部」「東京興信所栃木派出所」などが有った場所に成ります。
入舟川2.jpg寶橋下流側.jpg
(寶橋から上流側を望む。右手前が保育所)(寳橋下流側は個人の敷地内を流れる)
寶橋の下流側橋詰に周りを黒く塗った土蔵が建っています。入舟川はこの橋の下流側で個人の敷地内を流れる事から、川の上にも金網のフェンスが設けられています。明治期の地図や営業便覧等にも出ていた水車がこの辺りに有ったものと思われます。
現在土蔵の屋根に載る「鬼瓦」やその前を飾る「ハナブカ」に付けられた屋号紋を確認すると、「カネジャクに漢字の井」の紋が付けられています。
井上邸(入舟町)鬼瓦.jpg井上酒店屋号紋jpg.jpg
(入舟川沿い、土蔵の屋根の鬼瓦についている屋号紋)
私が確認をしている範囲では、栃木の旧市内にてこの屋号紋を使っている店舗は、2軒のみです。1軒は万町交番前の「櫻井源右衛門商店」、そしてもう1軒は倭町に以前店舗を構えていた「井上酒店」です。
自慢焼で有名な「富士屋」さんの右隣りの店舗(現在は「MORO craft」さん)の屋根の上、箱棟の部分にこの屋号紋が付いています。それを挟むように「堺屋」の文字が付いていますが、酒類商「井上商店」の名残りです。
現在ここ、入舟川が流れる敷地を所有されている方を住宅地図にて確認してみると、「井上」と記載されています。入舟川は井上邸の庭の下を流れ、向きを東方向に変えて巴波川の合流しているのでした。ただ前記した様に明治40年発行営業便覧の中には、この地にあった水車には「田名網水車」の名前が有りました。そして、その頃井上さんはまだ大通り倭町に店舗を開いていました。いつ入舟町のこの地に移ったのか?そして、入舟川の事を地元の人達がなぜ「井上堀」と呼んでいたのか、今回理解する事が出来ました。

入舟川に架かる最後の橋「會橋」は、巴波川の右岸に沿った道路に架かっています。入舟川はこの「會橋」の下を流れた後、巴波川に合流します。
入舟川3.jpg
(昭和57年3月撮影入舟川、奥に見える橋が巴波川右岸を通る道路に架かる「會橋」)
上に掲載した写真は35年前の風景ですが、現在は手前の石橋も奥の「會橋」も、見られますが、対岸の建物は解体されて現在は更地に変わっています。
入舟川5.jpg入舟川4.jpg
(入舟川下流域、住居表示変更以前、湊町と入舟町の境と成った路地)(現在の風景)
入舟川は2年前の、2015年9月9日から10日の豪雨により大きな被害を受けています。写真に写る石橋は残りましたが、護岸はかなり荒れ、川の中には今も沢山の土砂が残っています。
栃木のひとつの風景ですが、「入舟川」を巴波川と旧県庁堀漕渠と絡めて保存したいと考える、河川と橋です。
最後にこの入舟川の流域周辺を概略図に描いて見ました。
入舟川流域概略図.jpg
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