栃木市における釜屋号 [懐かしい写真]
今日、関東地方の梅雨明け宣言が有りました。私の住む栃木市も連日30℃を越える暑い日が続いていましたから、「やっと梅雨明け宣言が出たな。」と言った感じです。今後の天気予報を見ても最高気温が35℃から40℃に迫る日が続きそうで、毎日冷たいものばかり取り過ぎて、お腹の方も大分疲れて来ています。
ここは鰻でも食べてスタミナを付けたいところです。もう直ぐ7月25日、土用の丑の日です。市内の鰻屋さんも忙しくなります。
栃木市内にも多くの鰻を扱うお店が有りますが、その中のひとつに「釜屋」さんが有ります。創業は明治2年と言う老舗に成ります。
(現在の釜屋さんの店舗入口) (玄関に掛かる釜屋さんの店舗暖簾)
現在の店舗は城内町2丁目に有りますが、以前は河合町の巴波川に架かる「開明橋」の南東橋詰で営業されていました。
手元の「栃木県営業便覧」(明治40年10月発行)を見ると、そこには「釜屋」とでは無く、「鳥屋」と記されています。釜屋さんは元々は鳥料理がメインだったのでしょうか?確かに釜屋さんで頂く焼き鳥、とても美味しいです。
(巴波川の開明橋の橋詰で営業していた「釜屋」さん。1979年4月撮影)
栃木の市街地には以前、「釜屋」という屋号を用いていたお店が多く見られました。 私が子供の頃、「釜芳さん」とか「釜重さん」とか言うお店の名前を耳にした事が有ります。
そこで、先ほどの「栃木県営業便覧」を調べて、明治40年当時栃木町で「釜屋号」を付けた商店を見付けて行くと、9店舗有りました。
①釜屋 善野喜平 味噌醤油醸造元 室町(現在はNTT東日本栃木ビル.)
②釜屋號 早乙女峰次郎 美術両中形小紋更紗問屋 倭町(元蔵の街第三駐車場)
③釜芳 伊藤芳次郎 砂糖石油肥料食塩商 倭町(現在は足利銀行栃木支店)
④釜屋號 善野伊平 呉服太物商 倭町(現在は中原証券栃木支店)
⑤釜屋 竹澤傅次郎 醤油味噌漬物和洋酒瓶詰 万町(栃木信用金庫本店)
⑥釜屋號 長谷川峰七 染物業 旭町(場所不明、神明宮の東方?)
⑦釜屋號 篠山長平 染物業 片柳(現在は境町19 駐車場)
⑧釜屋 篠山傅吉 製茶煙草商 相生町(現在は室町4 ミツワ通り)
⑨釜屋號 金子忠吉 萬染物業 入舟町(現在錦町11 かねこ整骨院)
※屋号・氏名等は掲載内容、( )内は所在箇所の現在の状況です。
(境町、旧例幣使街道沿いの染物業「釜長」さん⑦の当時の様子。1978年6月撮影)
釜屋号に関する外の資料を探してみると、栃木市図書館に明治31年(1898)12月発行の「日本全国商工人名録 全」が有りました。この商工人名録は全国的にその頃の商人工人を調べた名簿で、栃木町では97名掲載され、その内8名の釜屋が名を連ねています。
①釜屋 伊藤善次郎 萬町 麻苧商 (現在万町6 空き店舗)
②釜屋 坂本重藏 倭町 麻苧商 (現在は倭町8 再開発中)
③釜屋 大塚金兵衛 室町 呉服太物商 (現在は室町6 デニーズ駐車場)
④釜屋 大塚敬吉 倭町 呉服太物商 (現在は倭町8 再開発中)
⑤釜屋 前澤藤平 萬町 絲類商 (現在は万町4 快眠館大二)
⑥釜屋 善野喜平 室町 醤油醸造 (現在は室町12 NTT東日本栃木ビル)
⑦釜屋 舘野茂吉 泉町 肥料商 (現在は泉町3 旧例幣使街道に東面)
⑧釜屋 伊藤芳次郎 倭町 砂糖商 (現在は倭町11 足利銀行栃木支店)
(泉町、旧例幣使街道、嘉右衛門町通り入口に建つ「釜平」さん、舘野家住宅兼店舗)
明治31年の商工人名録の中で釜屋号と記した8店舗の内、明治40年発行の営業便覧で釜屋号が付記されなかった商店が5軒(①釜善、②釜重、③釜金、④釜敬、⑥釜平)そして店舗名自体が確認出来なかった⑤釜藤の1軒でした。この釜藤と言うお店は大正時代の萬町(大通り)の店舗名を記した資料によると、営業便覧に出ている「正直屋」と言う、洋傘製造帽子各種の店舗の南隣りに、「釜藤」の名前が出ています。
これまでの資料で確認された釜屋号の店舗は15に成ります。が、この中には最初に話題にした鰻の釜屋さんは出ていません。又、現在も質店を続けている万町の「釜佐」さんも出て来ていません。
図書館で更に資料を確認して行くと、栃木商工会議所が発行した、「栃木商工案内 昭和十年版」の中に釜屋号の店舗を確認する事が出来ました。
<商号> <営業別> <営業所> <氏名>
①釜藤 糸綿 萬町 合名会社釜藤商店
②釜平 履物(肥料) 泉町 舘野惣吉
③釜屋 金物 萬町 田村福三郎
④釜忠 染物業 錦町 金子愛之助
⑤釜伊 呉服太物 倭町 善野碩之助
⑥釜重 麻眞縄 本町 坂本 喬
⑦釜重 荒物(立麻) 萬町 坂本千代三郎
⑧釜芳 砂糖石炭茶製粉 倭町 釜芳商店
⑨釜屋 川魚(蒲焼) 河合町 渡邊為吉
⑩釜佐 質商 萬町 善野佐次平
この資料で新たに確認された店舗は、5軒(③・⑥・⑦・⑨・⑩)と成り、合計20店舗です。
(現在万町山車会館入口南側の空き店舗が釜屋号③の金物店でした。1994年8月撮影)
(現在も質商を営む、「釜佐」善野家土蔵。現在は「とちぎ蔵の街美術館」と成っています)
更に、栃木の街の中を歩いていると、今も釜屋号の看板を掲げた店舗を確認出来ます。店舗の名前は「釜利」さんです。大正時代の万町大通りの店舗名を記した資料の中にも、「釜利」(ポンプ屋)と出てました。
(万町、出井書店から北側3軒目に、「釜利」と記した看板を掲げた店舗)
今回確認出来ただけでも、栃木市内で釜屋号を付けた店舗は21軒有りました。栃木県の県都「宇都宮市」には栃木市よりはるかに多い屋号を付けた店舗が有りますが、釜屋号の店舗はそんなに多くは有りません。それではなぜ栃木の街にこんなに釜屋号を付けた店舗が現れたのでしょうか。
そんな疑問に答える資料となる書籍が最近発行されました。石崎常蔵氏が著した「栃木人 (明治・大正・昭和に活躍した人びとたち)」です。その本の中に正に「釜屋考」としてまとめて有ります。私が以前から興味を持っていた「釜屋号」について今回さらに踏み込む貴重な資料を多く提供して頂けました。参考にさせて頂きました。
栃木町にて最初に「釜屋号」を名乗ったのは、何時の頃で誰だったのか。
江戸文学研究家の林美一氏の著書「歌麿が愛した栃木」(昭和47年9月発行)の中に、初期の善野家の様子が記されています。以下はその要約です。
≪宝暦年間(1751~1763)に近江の守山から、この栃木に来て土着した善野一族は苦労の末に成功をして財を築きました。善野御三家と言うと、「釜喜」・「釜佐」・「釜伊」という事に成りますが、まず最初は善野喜左衛門が「釜屋号」を名乗りました、「釜屋の喜左衛門」略して「釜喜」となります。初代「釜喜」です。そしてこの初代がその弟に2代目喜兵衛として「釜喜」を譲り、その後喜佐衛門は別家をして「善野佐次兵衛」を名乗ります。これが「釜佐」の始まりに成ります。即ち「釜喜」と「釜佐」の初代は同一人物という事に成ります。もう一つの「釜伊」の始まりは、釜喜の2代目の長男が3代目釜喜を継ぎ、弟の伊兵衛が「釜伊」の初代を名乗ったものと云われています。≫
「栃木人」の中で石崎氏は、≪このように「釜屋」は栃木地方の善野三家の成功によって、「信用」のブランドと認められ使用された。≫と記しています。
この事が栃木の街に多くの「釜屋号」の商家が現れた大きな要因と言って良いのかも知れません。
そんな「釜屋号」も時代の流れの中で次第に消えて少なくなってしまいましたが、喜多川歌麿の肉筆画の大作「雪月花」三部作のひとつ「深川の雪」が長い間所在不明と成っていたものが、平成24年(2012)に発見された事で、再び脚光を浴びることと成った,栃木の豪商「釜伊」と、歌麿の作品中に狂歌が載る通用亭徳成こと「釜喜」の4代目善野喜兵衛。これからもずっと栃木の「釜屋号」を大切に語り継いでいきたいものです。
ここは鰻でも食べてスタミナを付けたいところです。もう直ぐ7月25日、土用の丑の日です。市内の鰻屋さんも忙しくなります。
栃木市内にも多くの鰻を扱うお店が有りますが、その中のひとつに「釜屋」さんが有ります。創業は明治2年と言う老舗に成ります。
(現在の釜屋さんの店舗入口) (玄関に掛かる釜屋さんの店舗暖簾)
現在の店舗は城内町2丁目に有りますが、以前は河合町の巴波川に架かる「開明橋」の南東橋詰で営業されていました。
手元の「栃木県営業便覧」(明治40年10月発行)を見ると、そこには「釜屋」とでは無く、「鳥屋」と記されています。釜屋さんは元々は鳥料理がメインだったのでしょうか?確かに釜屋さんで頂く焼き鳥、とても美味しいです。
(巴波川の開明橋の橋詰で営業していた「釜屋」さん。1979年4月撮影)
栃木の市街地には以前、「釜屋」という屋号を用いていたお店が多く見られました。 私が子供の頃、「釜芳さん」とか「釜重さん」とか言うお店の名前を耳にした事が有ります。
そこで、先ほどの「栃木県営業便覧」を調べて、明治40年当時栃木町で「釜屋号」を付けた商店を見付けて行くと、9店舗有りました。
①釜屋 善野喜平 味噌醤油醸造元 室町(現在はNTT東日本栃木ビル.)
②釜屋號 早乙女峰次郎 美術両中形小紋更紗問屋 倭町(元蔵の街第三駐車場)
③釜芳 伊藤芳次郎 砂糖石油肥料食塩商 倭町(現在は足利銀行栃木支店)
④釜屋號 善野伊平 呉服太物商 倭町(現在は中原証券栃木支店)
⑤釜屋 竹澤傅次郎 醤油味噌漬物和洋酒瓶詰 万町(栃木信用金庫本店)
⑥釜屋號 長谷川峰七 染物業 旭町(場所不明、神明宮の東方?)
⑦釜屋號 篠山長平 染物業 片柳(現在は境町19 駐車場)
⑧釜屋 篠山傅吉 製茶煙草商 相生町(現在は室町4 ミツワ通り)
⑨釜屋號 金子忠吉 萬染物業 入舟町(現在錦町11 かねこ整骨院)
※屋号・氏名等は掲載内容、( )内は所在箇所の現在の状況です。
(境町、旧例幣使街道沿いの染物業「釜長」さん⑦の当時の様子。1978年6月撮影)
釜屋号に関する外の資料を探してみると、栃木市図書館に明治31年(1898)12月発行の「日本全国商工人名録 全」が有りました。この商工人名録は全国的にその頃の商人工人を調べた名簿で、栃木町では97名掲載され、その内8名の釜屋が名を連ねています。
①釜屋 伊藤善次郎 萬町 麻苧商 (現在万町6 空き店舗)
②釜屋 坂本重藏 倭町 麻苧商 (現在は倭町8 再開発中)
③釜屋 大塚金兵衛 室町 呉服太物商 (現在は室町6 デニーズ駐車場)
④釜屋 大塚敬吉 倭町 呉服太物商 (現在は倭町8 再開発中)
⑤釜屋 前澤藤平 萬町 絲類商 (現在は万町4 快眠館大二)
⑥釜屋 善野喜平 室町 醤油醸造 (現在は室町12 NTT東日本栃木ビル)
⑦釜屋 舘野茂吉 泉町 肥料商 (現在は泉町3 旧例幣使街道に東面)
⑧釜屋 伊藤芳次郎 倭町 砂糖商 (現在は倭町11 足利銀行栃木支店)
(泉町、旧例幣使街道、嘉右衛門町通り入口に建つ「釜平」さん、舘野家住宅兼店舗)
明治31年の商工人名録の中で釜屋号と記した8店舗の内、明治40年発行の営業便覧で釜屋号が付記されなかった商店が5軒(①釜善、②釜重、③釜金、④釜敬、⑥釜平)そして店舗名自体が確認出来なかった⑤釜藤の1軒でした。この釜藤と言うお店は大正時代の萬町(大通り)の店舗名を記した資料によると、営業便覧に出ている「正直屋」と言う、洋傘製造帽子各種の店舗の南隣りに、「釜藤」の名前が出ています。
これまでの資料で確認された釜屋号の店舗は15に成ります。が、この中には最初に話題にした鰻の釜屋さんは出ていません。又、現在も質店を続けている万町の「釜佐」さんも出て来ていません。
図書館で更に資料を確認して行くと、栃木商工会議所が発行した、「栃木商工案内 昭和十年版」の中に釜屋号の店舗を確認する事が出来ました。
<商号> <営業別> <営業所> <氏名>
①釜藤 糸綿 萬町 合名会社釜藤商店
②釜平 履物(肥料) 泉町 舘野惣吉
③釜屋 金物 萬町 田村福三郎
④釜忠 染物業 錦町 金子愛之助
⑤釜伊 呉服太物 倭町 善野碩之助
⑥釜重 麻眞縄 本町 坂本 喬
⑦釜重 荒物(立麻) 萬町 坂本千代三郎
⑧釜芳 砂糖石炭茶製粉 倭町 釜芳商店
⑨釜屋 川魚(蒲焼) 河合町 渡邊為吉
⑩釜佐 質商 萬町 善野佐次平
この資料で新たに確認された店舗は、5軒(③・⑥・⑦・⑨・⑩)と成り、合計20店舗です。
(現在万町山車会館入口南側の空き店舗が釜屋号③の金物店でした。1994年8月撮影)
(現在も質商を営む、「釜佐」善野家土蔵。現在は「とちぎ蔵の街美術館」と成っています)
更に、栃木の街の中を歩いていると、今も釜屋号の看板を掲げた店舗を確認出来ます。店舗の名前は「釜利」さんです。大正時代の万町大通りの店舗名を記した資料の中にも、「釜利」(ポンプ屋)と出てました。
(万町、出井書店から北側3軒目に、「釜利」と記した看板を掲げた店舗)
今回確認出来ただけでも、栃木市内で釜屋号を付けた店舗は21軒有りました。栃木県の県都「宇都宮市」には栃木市よりはるかに多い屋号を付けた店舗が有りますが、釜屋号の店舗はそんなに多くは有りません。それではなぜ栃木の街にこんなに釜屋号を付けた店舗が現れたのでしょうか。
そんな疑問に答える資料となる書籍が最近発行されました。石崎常蔵氏が著した「栃木人 (明治・大正・昭和に活躍した人びとたち)」です。その本の中に正に「釜屋考」としてまとめて有ります。私が以前から興味を持っていた「釜屋号」について今回さらに踏み込む貴重な資料を多く提供して頂けました。参考にさせて頂きました。
栃木町にて最初に「釜屋号」を名乗ったのは、何時の頃で誰だったのか。
江戸文学研究家の林美一氏の著書「歌麿が愛した栃木」(昭和47年9月発行)の中に、初期の善野家の様子が記されています。以下はその要約です。
≪宝暦年間(1751~1763)に近江の守山から、この栃木に来て土着した善野一族は苦労の末に成功をして財を築きました。善野御三家と言うと、「釜喜」・「釜佐」・「釜伊」という事に成りますが、まず最初は善野喜左衛門が「釜屋号」を名乗りました、「釜屋の喜左衛門」略して「釜喜」となります。初代「釜喜」です。そしてこの初代がその弟に2代目喜兵衛として「釜喜」を譲り、その後喜佐衛門は別家をして「善野佐次兵衛」を名乗ります。これが「釜佐」の始まりに成ります。即ち「釜喜」と「釜佐」の初代は同一人物という事に成ります。もう一つの「釜伊」の始まりは、釜喜の2代目の長男が3代目釜喜を継ぎ、弟の伊兵衛が「釜伊」の初代を名乗ったものと云われています。≫
「栃木人」の中で石崎氏は、≪このように「釜屋」は栃木地方の善野三家の成功によって、「信用」のブランドと認められ使用された。≫と記しています。
この事が栃木の街に多くの「釜屋号」の商家が現れた大きな要因と言って良いのかも知れません。
そんな「釜屋号」も時代の流れの中で次第に消えて少なくなってしまいましたが、喜多川歌麿の肉筆画の大作「雪月花」三部作のひとつ「深川の雪」が長い間所在不明と成っていたものが、平成24年(2012)に発見された事で、再び脚光を浴びることと成った,栃木の豪商「釜伊」と、歌麿の作品中に狂歌が載る通用亭徳成こと「釜喜」の4代目善野喜兵衛。これからもずっと栃木の「釜屋号」を大切に語り継いでいきたいものです。
2017-07-19 23:15
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