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栃木市箱森町のこと [地図]

私が生まれ、そして現在に至るまで60年以上住んでいる「箱森町」。しかし、箱森町の事に関しては、殆んど分かっていません。最近に成って、自分が住む町にどのような歴史が有ったのか興味が湧いてきて、少しづつ調べ始めています。
私はこの町で生まれましたが、私の父は入舟町で生まれています。そして私の祖父は大皆川村で生まれています。ですから私の家には箱森町に関する情報は何も残っていません。

まずは現在の箱森町について確認をしたいと思います。
箱森町概略図.jpg
上の図は現在の箱森町のエリアーを概略図に表わしたものです。
北側は川原田町と野中町、西側は新井町と泉川町、南側は薗部町の一丁目と3丁目そして柳橋町に接しています。南東の端で入舟町と僅かに接しています。そして東側は錦町と小平町そして大町とに接しています。
大町との境界は概ね巴波川の流れに沿っています。西側は昔、風野村の集落中央を南北に走る道路を境に東側は箱森、西側を新井と泉川とに分かれました。現在、道路の西側に沿って暗渠化された水路が南の錦着山方向に伸びています。
風野町.jpg
(元風野町の通りを北側から錦着山方向を望む。道路西側に暗渠化された用水路)
「風野堀」と呼ばれる用水堀で、錦着山の東側に架かる「錦橋」の下を流れ、カッパ寿司さんの西側に残る石橋アーチ橋の「八雲橋」の下流で、錦着山の南側を西から流れて来た「東郷堀」と合流して南隣りの薗部町1丁目と3丁目の境として南に伸びています。
2013年風野堀(錦着山より).jpg
(錦着山上より北方向を撮影。写真中央に「風野堀」、右半分「箱森」左「泉川」と成ります)
箱森町の中央部を「栃木環状線」が通り、東端には「栃木粟野線、南側に「栃木佐野線」そして中央を北西側栃木インター方面に伸びる「栃木粕尾線」の県道が通っています。
外環道西.jpg
(栃木外環道の箱森町歩道橋上から南西方向を撮影。太平山を正面に望む)
外環道東.jpg
(栃木外環道の箱森町歩道橋上から北東方向を撮影。イオンやコジマの看板)

箱森町の現在の人口は、5,448人(2017年7月31日現在)ですが、この人数は旧栃木市ないの町内では、大宮町の6,923人に次いで2番目に多い町内と成っています。次いで平柳町(4,899人)、片柳町(4,703人)、薗部町(3,866人)と続いています。ここで、薗部町や片柳町などは町内が更に区割りされ、一丁目・二丁目・三丁目などに分かれています。その為、薗部町一丁目は栃木女子高から錦着山にかけての一画、四丁目は永野川の西側から太平山遊覧道路に至る一画と広い薗部町の中で、どの辺りか範囲を狭める事が出来ます。片柳町も同様で一丁目から五丁目と五つの区域に分割されています。
箱森町の場合、そのような分割が有りませんから、住居表示の何番何号で位置を調べますが、番号表示も1番から53番まで有る為、番号を言われても箱森町のどの辺りに成るか、全く見当が付きません。
ちなみに1番は「特別養護老人ホーム」辺りで、「錦着山」は8番に成ります。「イオン栃木店」辺りが37番です。箱森町の北東隅となる「アップル薬局はこのもり店」が53番でした。
私が子供の頃に住んでいた所は、箱森一丁目と成っていました。国土地理院昭和40年3月30日発行の2万5千分1地形図「栃木」には、箱森町の所に「一丁目」の文字の他、「東部」・「西部」の記載が確認出来ます。確かに私が子供の頃は、「箱一」とか「箱東」そして「箱西」という呼び方をしていました。
栃木市は栃木県で最初に、昭和38年8月1日付けにて、新住居表示への変更を実施しました。第一次として市街地中心を対象に実施しました。この時は箱森町は対象外でしたが、昭和45年3月1日の第二次で、箱森町も「〇番-〇号」へと変更が行われています。

ただ、現在も箱森町は自治会の名称として以前の様な、「箱森町一丁目自治会」とか「箱森町西部自治会」、「箱森町中央自治会」、「箱森町東部自治会」が使われています。以前の東部自治会は「中央」と「東部」に分かれています。
箱森一丁目 公民館.jpg箱森町中央公民館.jpg
(箱森町一丁目公民館)                (箱森町中央公民館)
箱西公民館.jpg箱森町東部公民館.jpg
(箱森町西部公民館)                 (箱森町東部公民館)

「箱森」と言う地名は何時ごろ現れたのでしょうか。詳しい事は分かりません。
集落の状況について私達が確認する手段としては、古地図の様なものが有ればと思いますが。この周辺の古地図は、宝暦9年(1759)の「栃木町絵図」、天明7年(1787)の同じく「栃木町絵図」、そして天保8年(1837)の「栃木町並栃木續新田村屋舗図面」、更に古い年代のものでは「天和」(1681~1683)の元号が記された「小平柳村」の絵図が確認されますが、残念ながら「箱森」を描いた絵図などは、まだ見た事が有りません。
私が見た事の有る「箱森村」の様子を記した最も古い地図は、明治に入ってからのもので、明治19年7月発行の迅速測図「栃木」2万分1です。
この地形図を見ると、明治初期の箱森村の集落の様子が細かく描かれています。最も人家が密集している地区は、現在「箱森町西部」の公民館の有る鷲宮神社の西側周辺、そして現在の「箱森町中央公民館」が建つ十二社神社の周辺、そしてもう一ヶ所は旧赤津川の東側(現在なかつぼクリニック)周辺に集落が形成されています。
鷲宮神社.jpg
(鷲宮神社の周辺は、明治の初期に箱森村で最も大きな集落が有りました。)
十二社神社.jpg
(十二社神社南側の細い道を進むと、箱森西部の舘野へ通じています。)
この内、鷲宮神社を中心にひらけた場所は、大正6年7月30日発行の2万5千分1地形図「栃木」には、「御邊」と言う地名が大きく記されています。「御邊」と言う地名は何を意味するものなのか、私はずっと以前から気に成っていました。それに対する情報が栃木市教育委員会が平成27年3月31日に発行した、「栃木市遺跡分布地図」と題した冊子の中に有りました。
そこには「舘野城・御辺館地籍図」が掲載されていて、横に解説文が載っています。
≪御辺館 : 栃木県教委1982では、鷲宮神社あたりを城郭推定地としているものの、現地に遺構は存在しない。地籍図調査においては、字御邊に水路で囲まれる四角い空間が見受けられ、ここを御辺城と想定したものと考えられる。≫
御辺.jpg
(写真右側が周囲を堀の様に囲まれた館跡の地。奥の林の様になっているのが古墳)
現地に行くと、鷲宮神社の裏手に今も周囲に濠の様な地形が残る少し回りより高くなった土地を見る事が出来ます。その土地の西側に沿った道を北に少し入った林の中に、小さな小丘が有りその上に小さな石の祠が祀られています。手前に一つ鳥居が建てられていますが、何という神社なのか。この件も先ほどの冊子に記載が有り、小丘は径21メートル、高さ3メートルの古墳で、遺跡の名前は「鶴巻古墳」と記されています。
≪円墳、墳頂部に神社有、明治期に刀出土、県風土記の丘資料館1987≫と備考欄に記されています。
弦巻神社1.jpg弦巻神社2.jpg
(御辺の館跡の脇の道を入ると鳥居が有り、その先の小丘上に祠が祀られています)

元々、この御辺を中心とした地域が、古墳が残り、館の址が残り、集落も大きく形成されている等から、箱森村の中心だったものと考えられます。先ほどの冊子にはもう一つ「御邊」の北側に「舘野城」と言う遺跡についても説明しています。
≪舘野城 : 栃木市教委1990では、御辺館の北西を舘野遺跡としている。地籍図調査では、字舘堅(やかた)に、水路で囲まれた楕円形の空間があり、城郭遺構であったと考えられる。現在遺構としては、地籍図上南側の幅のある堀が池となって残っている。≫と、記しています。
「舘野」に関しては8月2日に「箱森町内を流れる館野川について」と題して載せています。
箱森町舘野周辺地図.jpg文色分け道路の説明.jpg
(箱森町の昔からの中心とされる、「御辺」や「舘野」周辺の様子を概略図にしました)
箱森町に館や城が有ったとは、まったく知りませんでした。
尚、河合町にある熊野神社(開明橋の橋詰に祀られています)は、元箱森に有った熊野神社を分祠したものと云われていますが、私はその元の熊野神社を探して箱森町の中を捜し歩きました。町内には多くの屋敷神社が有りましたが、結局探し求めていた熊野神社は取り壊されて無くなっているという事でした。その熊野神社が有った場所と云われるのが、小野産業㈱栃木工場の西側、蕎麦店「山成」さん辺りだったようです。今も大きな木が一本残っています。
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