SSブログ

風野堀(栃木市)の源流を求めて [栃木市の河川と橋]

私の高校時代の通学路に「錦橋」と言う名の小さな橋が架かっていました。
その橋は、錦着山の東麓で橋詰に名物の「いもぐし」を売る「うえき屋」さんの横に有りました。「うえき屋」さんには部活の帰りお腹が空いた時など、寄り道して「イモフライ」を食べた思い出が有りますが、残念ながら既に閉店をしています。
錦着山東麓.jpg
(錦着山東麓登り口に建てられた石の鳥居、右側「うえき屋」さんの手前に「錦橋」高欄)
その「錦橋」現在は道路の拡張で上流側の高欄しか残っていません。
錦橋高欄.jpg
(北から南流して来た風野堀は「錦橋」の下へ入り込んでいます)
高欄には橋の名前「にしきばし」の銘板と反対側には下を流れる水路の名前「かざのぼり」の銘板が付いています。
かざのぼり.jpgにしきばし.jpg
(風野堀をひらがなで表示)           (錦橋をひらがなで表示)
水路の名前「かざのぼり」はこの橋の架かる場所から上流600メートル程に有る地名「風野」の集落の中央を北から南に貫流している堀から、その地名から名付けられたものです。
「風野」は現在集落の中央を貫流するこの水路を境に。東側は箱森町に、西側は新井町と泉川町に分かれていますが、以前は「風野村」と言う独立した村でした。
錦着山上より見る風野堀.jpg
(錦着山に登り北側に目を向けると、「風野堀」が暗渠化している道路を見られます)

慶安元年(1648)の村高の資料の中には、≪風野村 高83石7斗5升8合、内田60石5斗2升3合、畑23石2斗3升5合≫と記されています。その後の元禄十四年(1701)の領主と石高の資料では、≪竹本治左衛門知行、高91石9斗9升1合3勺≫と記されています。この石高は天保五年(1834)においても変わっていません。(栃木市史 通史編)
それが明治21年4月17日法律第一号をもって「市制・町村制」が公布され、これによりこれまでの独立した村は大字と成っています。
即ちそれまでの「風野村」も栃木町大字風野と変わっています。その当時の「風野」の戸数は6戸で人口は45人(男16人・女29人)と言う記録が有ります(栃木市史 通史編 町村の概要明治24年より抜粋)
昭和5年の国勢調査に於いても≪大字風野として戸数9戸、男21名・女29名≫と記されています。

その様な風野村は、もと「風の舞」と云った原野で、箱森の地であると主張する箱森側と皆川氏の勢力との交錯点であったために、かえって風野村91石という小地域の独立と成っています。ここに皆川氏により水沼縫之亮が派遣され、そのまま帰農、子孫は徳川時代に同地方の名主をつとめたと伝えられます。
道路西側の暗渠化された風野堀.jpg
(暗渠化され歩道と成った風野堀、道路脇に今も立派な長屋門を残す水沼家)

風野堀は錦橋の下に潜った後、錦着山東麓から南側に回り込む道路の拡張の為、橋の下流側の高欄は無く、拡張された道路の下を暗渠化されて流れ、60メートル程下流側に架かる石造りアーチ橋の八雲橋の手前で表に現れます。
風野堀暗渠部.jpg
(錦着山東麓に沿う拡張された道路、下を暗渠化した風野堀が続いています)
風野堀暗渠出口.jpg
(暗渠部から姿を現した風野堀、手前の高欄は八雲橋)
八雲橋全景.jpg八雲橋要石.jpg
(下流側から見た石造りアーチ橋の八雲橋)      (八雲橋と刻されたアーチの要石)
現在八雲橋の東側(左岸)は、回り寿司のお店の駐車場と成っていて、橋は通行できません。明治の初期にはこの地には栃木県令の別荘が建てられていました。

風野堀は「八雲橋」を抜けると、錦着山の南東部にて西方向から流れて来た「東郷堀」と合わさり。流れを南方向に変えて、栃木女子高校の西側で県道太平山公園線に突き当たるまで真直ぐに流れる「東郷堀」と成ります。
東郷堀・風野堀合流点.jpg東郷堀.jpg
(手前風野堀、奥で口を開けているのが東郷堀)(風野堀の水を合わせた東郷堀は一路南へ)

さて、それではこの風野堀の水は元来何処を水源としていたのか、その源流を探ってみました。
大正6年(1917)7月30日に発行された「栃木」の2万5千分の1の地形図にその答えが出ていました。
赤津川分水路周辺図.jpg
(大正6年の地形図を参考に、風野堀の源流からの水路を概略図に表わしました)
錦着山東麓の橋の地図記号「錦橋」の場所から地形図の上方(北)に向かって描かれている水の流れを表わす波線(上図では青色の線で表示)が、風野の集落中央を抜け、集落の北端で西に曲りその後多少の屈曲を繰り返しつつ新井の天満宮の東に有る池までつながっています。
この地図に従って現地を確認します。
新井天満宮正面.jpg
(元、新井村の村社「天満宮」)
まずは新井の天満宮へ。私が初めて天満宮の写真を撮影した頃は、境内東側の道路は有りませんでした。社殿左脇、天然記念物の欅は以前は社殿の上空まで枝を伸ばすほどの大木でした。
私が初めて撮影した天満宮.jpg天満宮のご神木.jpg
(境内東側には道路は有りませんでした)(以前のご神木の欅、社殿を覆うような枝振りでした)
新井天満宮東沿いの新道.jpg
(天満宮境内東側を走る新道と更にその東側に広がる平地、この辺に以前池が有ったのか)
国土地理院の発行する地形図上にこの天満宮東側の新道が記載されるのは、平成元年(1989)ですから、昭和の末に開通された道路に成ります。
昭和40年(1965)発行の地形図にはそれまで描かれていた池の姿が無くなってます。元々池と言っても一年中水が満々としていたものでは無かった様です。
文政十三年(1830)に古河藩の小出信左衛門重固(号松斎)が、藩主土井利位の内意をうけて編纂された「古河志」の中にこの新井天満宮脇の池についての記載が見られます。
≪西新井村 用水あま池 せばくして浅し、 池とはいえども秋の末より春の半までは、水涸れ土かわき、纔のから堀なり、毎年2月25日天神まちとて、参詣群集せり、わづかのくぼみ故、此所へあきんどもみせをひらけり≫ (栃木市史 資料編 近世)
この池の有った場所の南側道路に沿って東へ現在暗渠化した水路が認められます。
天満宮から東方向に向かう水路.jpg
(写真奥が天満宮、手前の空き地に以前池が有ったものか、蓋をした水路が東へ)
水路はその東側の共同墓地の南側を抜け、その先で直角に向きを南に変えます。
東から南に向きを変える水路.jpg
(共同墓地の前を抜けた所で、向きを南に変える水路)
その後、道路を斜めに横断する水路が、地形図に描かれている姿で現在も確認出来ました。
斜めに走る水路.jpg
(道路を斜めに横断している水路、南東方向に向かう)
その後水路は向きを東に変え、現在の「樋口橋」の方向に向かう道路の南側に沿って流れています。
樋口橋方向に流れる水路.jpg
(写真奥に見える橋が「樋口橋」、道路の南側に沿って水路が走っています)
橋の西側で再び南東方向に流れて、風野の集落方向に向かっています。
南東方向に向かう水路.jpg
(樋口橋西橋詰の集落手前で水路は方向を南東方向へ、前方奥に錦着山が写る)
現在はその間に昭和26年竣工した赤津川分水路が北から南に流れている為、かっての水路はここで分断されています。
赤津川分水路樋口橋下流点.jpg
(昭和26年竣工の赤津川分水路、前方の橋は「樋口橋」。前田橋の橋上より撮影)
この新しい水路を設ける「赤津川改良工事」に当たって、地元では大問題が起こりました。
新しく設ける水路の区間の農地がつぶれるばかりでなく、その両側の灌漑に支障が及び、その上永野川の補強工事によって下流にも影響が及ぶという事で、地元皆川、吹上の一部、市内箱森、薗部、片柳、平井、それに永野川下流の富田、瑞穂、水代、寒川、中等はじょうりゅうんために傍系の永野川下流まで大きな犠牲を強いられるとして団結し、工事反対同盟会を結成し、県側の測量等をはばむ事態となりました。解決策として、①橋梁はすべて永久橋とすること。②用水不足を考慮して井戸を開鑿する事。などの条件を付して受益者の栃木市側もこれを入れて妥協成立と成っています。このためこの工事には伏越工事(サイホン)がなされた、つまり両側の耕地の灌漑用水の水位を同じくするため用水が川床の底をくぐりパイプが敷設され支障を来さぬ工法がなされることになったし、わずか2,780メートルしかないこの水路に、11ヶ所ものコンクリートの永久橋が架けられることに成ったのでした。(稲葉誠太郎著、巴波川物語第一巻。九、赤津川改良工事 その二の内容を抜粋させて頂きました。)
従って、天満宮脇の「用水あま池」からも用水の流れもこの赤津川分水路の川床の下をパイプを抜けて、風野へ通じている事なのでしょう。今回確認出来ませんでした。
現在風野の集落の北端から集落中央を走る道路の西側に沿って暗渠化された風野堀に西側の田んぼの中から合流する水路も確認出来ます。
風野堀北端部.jpg
(風野の集落の北端で西側から道路脇の水路に流れ込むところ)
暗渠化された風野堀(北側から).jpg
(風野集落の中央を走る道路。その道路に沿って暗渠化された風野堀。前方に錦着山)

今回大正6年の地形図に描かれた水路に沿って、風野堀の水源と成っていた新井天満宮脇の池の跡からつながる水路を辿る事が出来ました。
nice!(0)  コメント(1) 

nice! 0

コメント 1

夢野銀次

栃木市新井町にある天満宮から天神堀ー風野堀を経て錦着山につながる堀、じっくり歩いてみたいですネ。2020年3月に発行された「栃木市皆川地区の歴史」(随想舎発行)の中で、この「ブログ巴波川日記」を参照して検証した記述が記載されています。「湧水地と堀」には栃木のまちのロマンを感じます。
by 夢野銀次 (2020-08-31 14:17) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。