SSブログ

古河 歴史と伝統が息づく町を歩く [歩く]

今日は、「歴史と文化を歩く会-栃木-」のメンバー20名で、茨城県古河市の街を、「古河市観光ボランタリーガイド協会」の方に案内をお願いをして巡って来ました。
JR古河駅西口前にてガイドの方と待ち合わせを行い、いざ古河の街巡りスタートです。
古河駅前.jpg
(本日のスタートとゴール地点、JR古河駅西口)
最初にガイドさんから古河市の成り立ちと現況について、説明が有りました。
≪平成17年に古河市と三和町・総和町とが合併して現在の古河市に成り、現在14万4千人ですが、人口は減少している。≫これは、大方の地方都市に共通して言える事で、私達の栃木市も同様です。
≪その歴史は、800年前、下河辺氏がこの地に入った、その当時は砦程度か。室町時代に古河公方が館を構え、江戸時代には徳川家の大老職や老中職と成った譜代大名が、古河城主となっている。その中でも特に土井家は150年間古河城主と成っている。≫説明はもっと細かく話されていましたが、私の頭に入って残ったのはこの程度。さすがに地元のガイドを20年もされてきているベテランだと最初から関心させられました。
最初に向かった所は、「日光道中古河宿道標」です。
現在古河の街中を縦貫するメインストリートは鍛治町通りとの交差点の北側にも直進して抜けていますが、この北に抜ける道路は昭和13年に開通していて、以前の日光道中は南側から古河宿内を北上この場所で突き当たると、日光道は左へ、右は筑波道と左右に分かれ、日光道中は左に折れた後140メートル程で直ぐ又折れて北方向に進んで行きます。この形態は栃木市の万町交番前交差点と同じです。
江戸時代、日光例幣使街道栃木宿の北の木戸が有った、現在の万町交番前交差点から北側に直進する道路は「北関門道路」と呼ばれ、昭和7年に開通。それ以前は古河宿と同じように左に折れた後60メートル程で再び北に折れ、嘉右衛門新田を抜ける道路と成っています。
古河市の道標は大きな四角柱で上部は常夜燈の形状。南面に「左日光道」、西面には「右江戸衜」と大きく刻されています。東面には「東筑波山」と大きく刻されその下に、「下妻・結城」他もう一つ地名が小さく刻されています(江川と読めそう)。北面にはこの常夜灯を建てた年月や建てた人の名前、揮毫した人の名前等が刻されています。常夜燈の脇に古河市教育委員会による説明板が建てられていました。
道標南東面.jpg道標北西面.jpg日光道中道標説明板.jpg
(日光道中道標南東側) (道標北西側)        (道標脇に立てられている説明板)
次は西に向かう「日光道中」へ。この辺りは「かぎのて銀座」と呼ばれ、かっては賑わった場所だったと言います。
かぎのて銀座.jpg
(道標の建つ交差点から西に入った通り、「かぎのて銀座」)
その先の交差点にて右に曲って北に向かう道路が日光道中。現在は「よこまち柳通り」と言うこの通りは、明治期から昭和初期に花柳界で賑わっていた所と言います。現在は「武蔵屋」という立派な店構えのお店がその名残を伝えています。
よこまち柳通り.jpg武蔵屋.jpg
(旧日光街道、現在は「よこまち柳通り」以前は花柳界が有り賑わっていた)(武蔵屋さん)
私達はその建物を遠目に見て、西側の「杉並通り」方向に歩きます。
「杉並通り」は、通りの北側に江戸時代が偲ばれる武家屋敷の面影を残すお屋敷が目を見張ります。
古河の町歩き1.jpg
(武家屋敷の面影残す「杉並通り」を歩く)
次に訪れた所は土井家も菩提寺「正定寺」です。境内東側の入口に建つ「黒門」は、昭和8年文京区に有った土井家の江戸下屋敷から移築されました。
正定寺表門.jpg正定寺黒門.jpg
(正定寺の朱塗りの門、手前右手にかつて池が有り弁財天が祀られていた)(黒門を見学)
境内にて古河領内高島村(現在の栃木市大平町)出身の、徳川四代将軍家綱公の生母「お楽の方」の供養塔や、土井家墓所を見学しました。
古河の町歩き2.jpg古河の町歩き3.jpg
(「お楽の方」の供養塔、隣りが岩船地蔵尊)  (土井家墓所)
墓所の正面に建つ二基の宝篋印塔は初代土井利勝夫妻(左側が利勝、右側が奥方)を供養した物。墓所は元東京浅草の誓願寺に有ったもので、大正12年の関東大震災後の東京復興計画によって移転をせまられ、昭和2年に当地に移されたと言います。
次に永井路子旧宅を見学。
永井路子旧宅.jpg永井路子旧宅中庭.jpg
(歴史小説家・永井路子旧宅)        (店藏奥の和室縁側からの眺め)
計画では永井路子旧宅については、外から見学で予定していましたが、邸内に入り座敷にも上がって、旧宅内の雰囲気にも浸ることが出来ました。その為20分程の遅れが出て来ました。少しスピードをアップして次の見学予定の「古河歴史博物館」へ向かうことに。
煉瓦造りの建物.jpg古河第一小学校.jpg
(古河街角美術館と篆刻美術館の間の通りを南へ)(古河第一小学校の煉瓦門)
途中、煉瓦積みした建物が多く見かけられます。石畳みの通りを先に進みます。古河で一番古いと言う「古河第一小学校の東側に沿って南へ。この小学校、昨年改築されて新しい校舎に変わった様です。
雪華を刻した歩道.jpg
(歩道に敷き詰められた六角形の石畳には色々な図柄の雪華が描かれている)
足元の六角形の石畳みにひとつひとつ異なる六角形の図柄が刻されています。これらの図柄は藩主の土井利位が20年の歳月を掛けて観察を続け、183種の雪の結晶を「雪華図説」に著した図柄を刻したものだそうです。尚これらの雪の結晶の図柄は古河市内の小中学校の校章にも成っているとの事です。
途中、時間の関係で「古河文学館」前も素通りして、古河城の諏訪曲輪(出城)の跡に建てられた「古河歴史博物館」へ到着。ガイドさんより前もって館内の案内を博物館の学芸員の方にお願いして有りましたので、展示物の説明を詳しく聞く事が出来ました。
古河の町歩き4.jpg
(かつての古河城諏訪曲輪跡に建てられた、古河歴史博物館)
最初に受付横の展示ホールで、オランダ製の大きなストリートオルガンの生演奏を実演して頂きました。前もって大きな音が出ますとの説明がされましたが、実際予想以上の音量で驚きました。
館内の展示品の説明を聞きながら、後のスケジュールの時間が気に成って時々時計を確認、20分の遅れが解消されていません。もっと聞いていたいところですが、申し訳なかったのですが、途中で説明を打ち切って頂きました。
つぎは博物館を出てすぐ前の「鷹見泉石記念館」の見学へ。
鷹見泉石記念館全景.jpg
(鷹見泉石が最晩年を送った武家屋敷を平成2年に記念館として開館)
この建物は土井家の元家老を勤めた者が入った場合が多かった。元治元年には、水戸天狗党100名余が一時収容された屋敷でも有りました。
邸内にて天然記念物に指定されている古木「楓樹」や、古河城二ノ丸御殿に有ったと伝えられる石燈籠などを見学しました。
古河の町歩き5.jpg石燈籠.jpg
(江戸時代以来の古木「楓樹(ふうじゅ)」) (重量感たっぷりの石燈籠)
今日は、秋の彼岸の入りです。庭には赤い曼珠沙華の中に、白色の曼珠沙華の花も丁度咲いていました。
古河の町歩き6.jpg
(竹林には赤や白の曼珠沙華が咲いていました)
いよいよ帰りの電車の時間が迫って来ています。古河駅に12時丁度に戻る計画でしたが少し遅れるのがハッキリして来たのでこの後は、ゴールに向かって歩く事に。
両毛線が昼間のこの時間帯、1時間に1本の為、目的の電車に乗り遅れると、次1時間待ちと成ってしまう為です。それでも何とかガイドさんの案内で、最終的には時間に間に合わせて古河駅に到着する事が出来ました。
古河の町にはまだまだ見たい所が残っています。歴史博物館の展示物も、もっとゆっくりと鑑賞したいと感じました。
本日の総歩数は7,582歩でした。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。