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日光例幣使街道「富田宿」を歩く [歩く]

今年も10月の声を聞いて、昼間のウォーキングも苦に成らない陽気になって来ました。
先日も久しぶりで「日光例幣使街道」の「富田宿」を歩いて来ました。
この街道は、私が若かった頃は栃木から佐野や藤岡方面に行くとき、必ず通る所でしたが、現在は「富田宿」の町並みの直ぐ西側を並行する形で、片側二車線の「富田バイパス」を通る為、この旧道を車で通行する事は無くなりました。
富田バイパス.jpg
すっかり交通量の少なくなったこの街道を、のんびりと周りの景色を眺めながら歩き、途中街道筋から脇道にも入り込んで、富田宿を満喫しました。
例幣使の一行が通った様に富田宿南の、古橋村(現在の栃木市岩舟町静和)との境界から歩き、宿内を南から北に縦貫して、北の宿外れで下皆川村(現在の栃木市大平町下皆川)との境界まで歩きます。
富田宿概略図.jpg
大平町が昭和57年3月31日に発行した「大平町誌」には、「富田宿」の項に≪富田宿が例幣使街道の宿駅となったのは、公式には正保三年(1646)からであるが、実際には元和三年(1617)徳川家康の霊柩を日光に埋葬する為、3月29日霊柩を奉護する行列がこの地を通行したときにはじまるということが出来る。≫と記しています。又、富田村の中を通過する往還の長さは「25町58間」(約2.83km)、そしてこの内富田宿を形成するのが「12町12間」(約1.33km)、宿の入口と出口にそれぞれ木戸が設けられた。としています。しかし現在街道を歩いても木戸がどの辺りに有ったのか記すものは何も有りません。
栃木県文化協会が昭和53年10月31日に発行した「栃木の街道」の「日光例幣使街道・富田宿」の中で、≪富田宿右手に薬師堂が有るが、ここが富田宿の入口で、往還には木戸が有った。≫と記していますが、現在は薬師堂が何処に建てられていたのか、確認出来ませんでした。
現在、岩舟町と大平町の境界付近を流れる小河川(河川名は上流の大平町側では「猿淵川」、下流の岩舟側では「静和川」)と呼ばれています。)に架かる橋(正明橋)を渡り、暫らく行くと右側に、小さな神社が祀られています。社殿前の鳥居は小柄で有りますが重量感の有る物。扁額等が無い為、神社名や祭神等は分かりません。その神社の先を進むと又街道の右側に火の見櫓が見えて来ます。この辺までに恐らく宿の入口となる木戸が有ったのでしょう。
富田宿1.jpg富田宿2.jpg
火の見櫓の脇を過ぎて150m程行くと、左に入る細い道が有り、その角に「真言宗豊山派 玉正寺」と大書した看板が建てられています。その脇に「富田坊玉正寺」と刻した古い石柱。ここから西に向かうと140m程、現在は富田バイパスの西側にその寺院は有ります。
「光明山持光院玉正寺」は大同二年(807)玄意法師の創立と云います。天正十九年(1591)徳川家康より朱印地10石与えられています。春には境内の梅や桜の花が咲き誇ります。
玉正寺1.jpg玉正寺2.jpg
歩を先に進めます。少し先に信号機の有る、少し広い道路と交差します。交差する道路は県道311号線(小山大平線)、右に曲って500m程行くと東武日光線の踏切となります。その踏切の直ぐ北側に「新大平下駅」が有ります。交差点の北西側角の家の門脇に「日光例幣使街道 富田宿本陣跡」と刻した石碑が建てられています。
本陣跡の碑.jpg富田宿3.jpg
先に掲示した富田宿の概略図ではこの場所は十字路では有りません。西に抜ける道は無く元は丁字路で、この突き当りに陣屋が有ったと思われます。
更に北上すると、道路左手に「八坂神社」が祀られています。
「八坂神社」は旧村社、主祭神は「素盞鳴命」。永享年間(1429~1441)、富田氏が中根に築城の折りに城内に牛頭天王を祀ったのを、寛永十七年(1640)現在の地に移したと伝えられています。(大平町誌より)
八坂神社.jpg八坂神社2.jpg
八坂神社を過ぎて更に北に歩を進めると、又道路の左側にポツンポツンと2棟モダンな洋風の木造建築の建物が現れます。最初の建物は「五月女醫院」、
富田宿4.jpg富田宿41.jpg
そして次の建物が「大平下病院」の文字が確認出来ます。
富田宿5.jpg富田宿51.jpg
これまでほぼ真直ぐ北に向かって進んで来た街道筋も、この大平下病院の辺りから緩やかな曲線を描いて、北東方向に向きを変えていきます。丁度カーブした辺りに左に入る細い道路が県道312号線(大平下停車場線)で、ここ例幣使街道からJR両毛線「大平下駅」前までの200m程の区間です。
富田宿6.jpg大平下駅.jpg
駅に入る丁字路を越えた所に、今度は通りの右手に連子格子の家なども有って、かっての富田宿の面影を伝えています。
富田宿7.jpg富田宿8.jpg
本陣跡の有った交差点から大分進んできました。そろそろ富田宿の出口の木戸が有った辺りに来ている筈です。残念ながら現在はその場所を記すものは何も有りません。すると前方の道路が急に広がる場所に出ます。街道の右手に朱塗りの堂宇が2棟建っています。街道近くに建つ二間四面、向拝付銅板吹きの屋根、最近塗り替えられたように鮮やかな朱色の堂宇。正面に「地蔵尊」と記した扁額が掲げられています。
その地蔵尊の手前で、道路から更に奥に入った間口3間・奥行き2間、同じく朱塗りの建物。正面に掲げられた扁額に「冨明山新田院 宗光寺」と記されています。時宗の寺院 開基は小山七郎左衛門宗光。沿革はこの寺は中世より時宗大本山相模国藤沢の遊行寺(元は清浄光寺)の末寺。かつて小山宗光は時宗を深く信仰していたので、永正二年(1505)この地に一寺を建立し、自分の名前をとって宗光寺と名付けた。(大平町誌より)
この場所の先で街道は異常に広くなっています。現在の道路は真直ぐに抜けていますが、明治初期の様子を表した「迅速測図」を良く観察すると。この場所で街道は少し筋違いになって右にずれています。これは私の勝手な予想ですが、この筋違いだった場所が、かって富田宿の出口の木戸が有った所ではないかと考えています。
富田宿地蔵尊.jpg富田宿宗光寺.jpg
そこから更に先に進むと、春には桜の花がトンネルの様になる桜通りの交差点を抜けた所、街道左手に朱塗りの鳥居が建つこじんまりとした社が現れます。鳥居の横に「樋下正一位稲荷神社」とした表示が有ります。
樋下正一位稲荷神社.jpg
その前を過ぎて暫らく進むと街道は再び県道11号に合流する交差点に出ます。この交差点の所で県道には行かず、そこから再び右手斜め前方に進む細い道路が、かつての例幣使街道に成りますが、その道路もその先は新たに区画整理された住宅街に変わり、かつての街道筋は無くなってしまいました。
現在県道の交差点から少し入った道路脇に忘れられたように、火口や傘など上部が落ちてしまった常夜燈が建っています。常夜燈の手前には一対の狛犬が残っています。
常夜灯の竿の部分と言うのでしょうか、正面に「太平山」、右側面に「日光山」、左側面「御神社」、そして背面には建立年月でしょうか「文政二皇紀己卯十一月」と刻されていました。文政二年は1819年に成ります。
この常夜灯の建つ位置は、富田村と下皆川村との境界に当たる所に成ります。
常夜燈1.jpg常夜燈2.jpg
ここでかつての富田村を縦貫する日光例幣使街道の南の古橋村の境界から、北の下皆川村の境界の区間を、ずっと見て歩きました。まだまだ分からない所が多い「富田宿」、また何時か歩いて見たいと思います。


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