箱森町、市道2051号線脇に建つ「竣工」碑 [石碑]
今回の石碑は箱森町、とりせん栃木店の東側を南北に縦貫する、市道2051号線の道路脇に建つ石碑です。
(道路の東側に南向きに建てられた石碑)
(石碑上部の篆額「竣工」の文字)
(碑文の上部、右端に「栃木町長 長谷川」、左端に「昭和七年一月」の文字)
(碑文の下部、右端に「調七篆額」、左端に「坂田耕雲撰並書」の文字)
篆額「竣工」の文字は、碑文の冒頭に刻されている通り、昭和初期の不況の時代に失業対策として、現在の太平山遊覧道路を敷設を進めた、第14代の栃木町長、長谷川調七氏に依るものです。昭和12年に市制が施行された後は、初代の市議長、そして三代目の栃木市長に就任をした人物です。
太平山遊覧道路の途中に有る「長谷川平」には、この長谷川調七氏を顕彰する石碑が建てられています。
(碑文を全文書き写してみました。〇部は読み取りが困難だった文字部分)
篆額の「竣工」の文字だけでは、何の竣工を記念して建てられた石碑なのか分かりませんが、碑文を読むとこの石碑が建つ脇の道路(現在は市道20515号線の一部)の開通を記念し建てられた石碑で有る事が分かります。
この石碑の建つ場所は、大正6年7月に発行された「栃木」の地形図を確認すると、「御邊」の字名が記され、一つの集落を形成していますが、その字内の道路状況はこの石碑の碑文に記されている如く、曲がりくねり狭くて不便な状況であった様です。
そこで大正12年に、栃木町泉橋より字内を通して皆川街道の境橋に達する道路を新設。東西の交通は改善されましたが、その後も南北に通る道路が無い状態に有った為、地元の有志が相謀り、多くの苦難を克服し昭和6年11月に、南は皆川街道(現在五差路と成っている所)から、同字中央を貫通して北は永野線(現在のファミリーマートの有る丁字路)に達する道路の竣工させました。この道路の開通を記念して翌昭和7年の1月に建立したもので有る事が碑文に記されています。
大正12年に開通した東西の道路は現在「市道1031号線」となり、又南北の道路は「市道2051号線」の一部となって、今もこの地域の重要路線として住民の生活を支えています。
(道路の東側に南向きに建てられた石碑)
(石碑上部の篆額「竣工」の文字)
(碑文の上部、右端に「栃木町長 長谷川」、左端に「昭和七年一月」の文字)
(碑文の下部、右端に「調七篆額」、左端に「坂田耕雲撰並書」の文字)
篆額「竣工」の文字は、碑文の冒頭に刻されている通り、昭和初期の不況の時代に失業対策として、現在の太平山遊覧道路を敷設を進めた、第14代の栃木町長、長谷川調七氏に依るものです。昭和12年に市制が施行された後は、初代の市議長、そして三代目の栃木市長に就任をした人物です。
太平山遊覧道路の途中に有る「長谷川平」には、この長谷川調七氏を顕彰する石碑が建てられています。
(碑文を全文書き写してみました。〇部は読み取りが困難だった文字部分)
篆額の「竣工」の文字だけでは、何の竣工を記念して建てられた石碑なのか分かりませんが、碑文を読むとこの石碑が建つ脇の道路(現在は市道20515号線の一部)の開通を記念し建てられた石碑で有る事が分かります。
この石碑の建つ場所は、大正6年7月に発行された「栃木」の地形図を確認すると、「御邊」の字名が記され、一つの集落を形成していますが、その字内の道路状況はこの石碑の碑文に記されている如く、曲がりくねり狭くて不便な状況であった様です。
そこで大正12年に、栃木町泉橋より字内を通して皆川街道の境橋に達する道路を新設。東西の交通は改善されましたが、その後も南北に通る道路が無い状態に有った為、地元の有志が相謀り、多くの苦難を克服し昭和6年11月に、南は皆川街道(現在五差路と成っている所)から、同字中央を貫通して北は永野線(現在のファミリーマートの有る丁字路)に達する道路の竣工させました。この道路の開通を記念して翌昭和7年の1月に建立したもので有る事が碑文に記されています。
大正12年に開通した東西の道路は現在「市道1031号線」となり、又南北の道路は「市道2051号線」の一部となって、今もこの地域の重要路線として住民の生活を支えています。
2018-01-31 20:22
nice!(0)
コメント(0)
コメント 0