SSブログ

栃木市日ノ出町の元軍馬購買所跡地に建つ石碑 [石碑]

栃木市大宮町から県道44号(栃木二宮線・通称小金井街道)を通って栃木の市街地に向かってくると、今泉町二丁目の中元内科医院の手前で、斜め右に入る道路が有ります。こちらの細い道路が昔の小金井街道でした。この道路は現在市道11118号線の管理番号が付けられ、途中東武日光線の踏切を通過して日ノ出町の榎堂稲荷神社の前を通って、ウエルシア栃木日の出町店の所で、再び県道44号線に突き当たります。途中の踏切は歩行者二輪車は通行できますが、自動車は通行不可になっています。
旧小金井街道東分岐.jpg旧小金井街道東武日光線踏切.jpg
(左が現在の県道、右が旧小金井街道)  (途中の東武日光線踏切、自動車通行不可)
この旧小金井街道の西側の出口近く、現在の山門クリニック駐車場の隅に、大きな石碑が道路に面して建てられています。その手前には小さな3基の石碑が建ち、向かって右側の石碑から「生駒大神」・「軍馬忠魂碑」・「黒鹿毛ギヤンタ號 鐡馬靈神」とそれぞれ文字が刻されています。
鐵馬霊神.jpg軍馬忠魂碑.jpg生駒大神.jpg
「鐡馬靈神」と刻した石碑は、昭和6年2月5日に小松澤繁助翁が建立。
「軍馬忠魂碑」と刻した石碑は、昭和14年4月7日に栃木軍馬購買斡旋組合が建立。
「生駒大神」と刻した石碑は、昭和22年6月5日に栃木家畜商組合員有志によって建立。

そしてその後ろに建つ大きな石碑には「小松澤繁助翁之碑」と中央に大きく刻され、右上に「創立十五年記念」、そして左下部分に「軍馬補充部本部長陸軍中将武藤一彦書」と刻されています。
小松澤繁助翁之碑(表).jpg小松澤繁助翁之碑(陰).jpg
(市道11118号線沿いに建つ石碑)    (小松澤繁助翁之碑の碑陰)

この「小松澤繁助翁」とはどんな人なのか、手元に有る昭和47年4月7日下野新聞社発行の「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」のページをめくると、「交通の先駆小松沢氏」として、≪小松沢繁助は、大正のはじめにトテ馬車を走らせた交通部門のパイオニヤ。日露戦争には、軍馬五百頭を軍に納めるという武勲を立てた。また大正十三年には小平重吉らと共同で関東自動車を創設、初代社長となった。≫と、紹介をしていました。
碑陰に目をやると、この石碑は昭和9年に、栃木軍馬購買斡旋組合が、組合創立15年を迎えるに当たり、昭和6年5月に病没した小松澤繁助翁の昔日の功績を偲んで、建碑したと記されています。碑陰一面に刻された碑文には、翁の軍馬購買斡旋に係わった人生が縷々と記されています。その全文を写し書きしました。
碑文写し.jpg
(小松澤繁助翁之碑、碑陰の碑文を写し書きしました。)

それではなぜこの石碑がこの地に建てられたのか。その答えは栃木市日ノ出町自治会が、昭和62年3月31日に町制50年を記念して発行した「日ノ出町史」の中に有りました。それは「栃木軍馬購買所」と題した記事で、≪トテ馬車又は関東バス株式会社の創設者でも知られている小松澤繁助翁が、日露戦争の時に軍馬を当地方から五千頭も納入して、近衛第一、第三、第十三、第十四、第十五、各師団に、昭和六年五月迄に軍馬を一万頭も買上納入しておりました。最初は、現在の深谷病院(今はサンライズクリニックに改称)の南側から久我様宅前道路迄に軍馬購買斡旋組合を作り、其の組合長に小松澤繁助翁がなられ・・・・以下略≫
まさにこの石碑の建つ場所に、「軍馬購買所」が有ったのでした。
この地方は美田が広がる農村地帯で、数多くの農耕馬が家畜として育てられ、農作業の大きな力となって家族同様に大切にされていました。それをお国の為として手放すことはとてもつらい事であったと思われます。
市内の各地に、軍馬として出征した馬を記念する石碑が建てられています。
日露戦役軍馬紀念碑(土与).jpg日支事變出征馬記念碑(薗部).jpg
(大平町土与の日露戦役軍馬紀念碑)  (薗部町の日支事變出征軍馬記念碑)

「小松澤繁助翁之碑」の前に建つ「鐡馬靈神」と刻した石碑は、翁がお亡くなりになった年の昭和6年2月5日に、翁自らが建立をしたもので、碑陰には戦場に赴き激務に耐えて務めを全うした軍馬への慰労の言葉が刻されています。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。