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栃木市箱森町の悪五郎神社 [栃木市の神社]

私が住んでいる栃木市箱森町に、悪五郎神社と称する小さな建物が建っています。
場所は「とりせん栃木店」のお店の丁度裏手、市道2051号線の道路脇に石の鳥居が建っているので、神社で有る事が認識出来ます。
悪五郎堂1.jpg
(市道2051号線の脇に見える石の鳥居、後方の建物は「とりせん栃木店」)
ところが、鳥居を潜って建物の前に来ると、神社としては少し違和感が有ります。建物は間口1間、奥行き1間ほどで、正面は観音開きの扉、側面及び背面は大谷石が積まれ、防火対応に成っています。その正面上部中央に掲げられた扁額に書かれた文字は「悪五郎堂」。その手前に吊るされているのは、鈴では無く鰐口です。この様子を見る限り神社と言うより寺院の様です。
悪五郎堂2.jpg悪五郎堂3jpg.jpg
(悪五郎神社正面)                  (「悪五郎堂」と記した扁額、そして鰐口も)
それもそのはずで、元々は「正樹院」と言い、銅仏の阿弥陀如来を安置する堂宇でした。現在はこの場所に祀られておりますが、「栃木郷土史」によると、
≪現今悪五郎神社と云うは、明治維新の折り、全村神道と化し、仏像院破壊せられ遂に散失せり、後、森戸家にて先祖を思う余り、神社として此所に安置す≫と、記されています。元は箱森の鷲宮神社境内に有りましたが、前記の如く神仏分離令により離れ、4回ほど場所を変え現在に至っています。

明治元年十一月、箱森村より知県事様ご役所に提出された「箱森村明細書上帳」(栃木市史、資料編近世)の中に、≪阿弥陀堂壱ヶ所、舗地二間二間、除地ニ御座候。 但、正寿院地内ニ有、之同院支配ニ御座候、真言宗吹上村正仙寺末寺≫又、≪正寿院、当時無住 本寺兼代ニ御座候≫と、記されています。
「箱森村明細上帳」には、この正寿院の他、宝蔵院と宝珠院の寺院名が記されています。これら箱森村に有った三つ寺院は明治維新の廃仏毀釈にて全て姿を消しています。
そんな中で正寿院(松樹院・正樹院と同じ)地内に有った阿弥陀堂だけは場所を移し、悪五郎神社として今に至っています。

「悪五郎堂」の事を調べてみると、江戸時代の後期に河野守弘が20年余の歳月をかけて著した「下野国誌」を初めとして、栃木市の歴史を扱った多くの文献の中に見る事が出来ました。
昭和12年4月1日、栃木市役所が発行した、「栃木史蹟」(大浦倉蔵編著)の中にも、「悪五郎堂及び弦巻神社」と題して以下の様に記されています。
≪下野國長沼淡路守宗政より7代目の、従五位下駿河守宗光は、幼名藤五郎、無双の強勇なるが故に世に悪五郎と呼ばれた。鎌倉に出で、征夷大将軍久明親王(92代伏見天皇の御弟)に仕へ、軍功に依り菊紋を賜わりました。其の後遁世して鎌倉の大御堂に住ひましたが、其の後長沼及び皆川に関係深き下野國皆川庄筥森に来り、松樹院(草庵)を建て、阿彌陀佛如来を安置して念佛三昧に入り、皇紀2011年第97代後村上天皇、正平6年8月6日、79歳で入寂松樹院悟峰融覚と號しました。≫
長沼宗光の没年、正平6年の年号「正平」は南朝のもので北朝は観応2年になります。西暦では1351年に成ります。下野国誌では観応2年となっていました。 
「栃木史蹟」によると、その後の長沼氏は≪12代目成宗の時、古河公方滅亡と共に氏族各地に散在し、成宗の孫宗春は奥州会津に走り、芦名氏を頼りて在りしが、天文11年卒し其の男光寛光隆兄弟は、芦名氏没後旧領筥森に立帰りて居りましたが、光隆は後 備後福山侯に仕え、其の子孫は森戸を名乗りて連綿として居ります。光隆より3代目の雅楽之助の弟藤兵衛は、筥森明ケ戸に来りて、森戸を名乗りて住ひました。光寛は筥森に於いて天正4年11月10日に歿し、其子孫は民間に在ると言われて居ります。≫
今「悪五郎神社」の建つ周辺には多くの森戸姓の家を確認する事が出来ます。




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