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栃木工業高校写真クラブの思い出 [懐かしい写真]

私が写真を始めたのは中学生の頃、家に有ったカメラを持ち出しては、学校の同級生の写真を遊び半分で撮っていました。オリンパスカメラでハーフサイズ、今もネガが保存されています。
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(1965年10月撮影、栃西中の校庭南側に人家は少なかった)(懐かしの木造校舎)

高校に入ると早速写真クラブに入りました。が、その頃1年生では私ともう一人だけ、先輩も数人しか居なかったと思います。最初は本館の化学室(物理室だったか)の暗室を部室として使用していたのですが、その後すぐに教室棟2階西側階段下の収納庫の様な部屋に移動となりました。
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(暗室内での写真の焼付け作業)       (第一回学校公開での写真クラブの作品展)
その頃、顧問の先生は機械材料を教えていた先生でした。それでも先生はあまり顔を出さず、結構勝手に活動をしていた記憶が有ります。
2年生に成った年、電子科に女子の生徒が入学して来て、我が写真クラブにも確か3名の女子が入部して来ました。
私が3年生に成った時も、部員は十数名でしたが、結構まとまりが有って、良く撮影旅行に行っていました。

1968年5月には中禅寺湖に出掛けました。この時は第一いろは坂を歩いて登りました。途中からガスが掛かり視界が悪くなりましたが、その頃はまだ車の通行もそれほど多くなく危険は感じませんでした。(1965年10月に第二いろは坂が開通していたので、従来の第一いろは坂は下り専用に成っていました。)
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(距離の短い第一いろは坂を歩いて登り中禅寺湖へ向かう)
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8月の夏休みには益子町へ撮影旅行。栃木から両毛線・水戸線そして下館駅から真岡鉄道に乗り換えて益子町へ。
ここで初めて登り窯を知りました。ここでも又良く歩きました。西明寺まで道は写真を見ると当時はまだ砂利道でした。畑には1メートル程に育ったタバコが、一面に大きな葉を広げていました。
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(益子の町で初めて登り窯を見る)     (西明寺への道は長閑な自然が溢れていました)
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(西明寺への砂利道を登る)           (西明寺三重塔)

翌1月には宇都宮の二荒山神社の初詣風景を撮影に行きました。そのころ女性は日本髪を結って晴れ着を着て初詣をしていました。
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(上野百貨店屋上より二荒山神社を)    (望遠レンズの先に捕えた被写体は?)
二荒山神社3.jpg二荒山神社4.jpg
(昭和40年代の初詣には、和服姿の女性が多く見られました)

あれから早いもので50年の月日が経ちました。最近、昔のアルバムを開くと一枚一枚の写真に撮影をした時の場面がよみがえってきます。そこには懐かしい多くの友の顔が笑顔で並んでいます。
段ボール箱一杯に詰まった写真のネガ、そろそろ処分しようか。
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コメント 2

読み書き堂

一味さま、貴重なお写真ありがたく拝見しております。

今回、「ネガを処分しようか」との書き込みにおどろき、心配になり、不躾ながらコメントさせていただきました。

処分とおっしゃるのは、もしや捨ててしまうということでしょうか。
これほどの歴史的資料を失うことは、後世の人々にとってたいへんな損失です。県の文化課へ委託されるなど、残す手立てをお考えいただけないでしょうか。

実はわたくし、とちぎ市民活動推進センターというところに勤めております。そこには、地域に残る歴史的資料を整理保存することを目的とした市民団体も登録されていますので、そういった団体に寄贈されるのもひとつの方法かと存じます。

今年度に入ってから、太田家見世蔵、旧永楽屋薬舗など、蔵の街大通り沿いの空き蔵に、古い写真が展示してあるのにお気づきでしょうか。あれも「ネットワークとちぎ」という、歴史アーカイブ団体のひとつが手がける「蔵のまちショーウィンド」という取り組みです。


失われゆく街の風景、その時代ごとの服装や生活の様子など、写真は時を越えてじつに多くの情報を伝えてくれるものです。
どうか、ご検討ください。


つい、興奮してしまいました。
突然のご無礼をお許しくださいませ。

by 読み書き堂 (2018-08-17 22:25) 

一味

読み書き堂様、「巴波川日記」にご訪問頂きありがとうございます。御提起頂きました件につきましては、今後検討をさせて頂きます。

by 一味 (2018-08-18 23:33) 

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