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佐野市を、天明宿中心に歩いて巡って来ました。 [歩く]

今日は「歴史と文化を歩く会-栃木」の12月例会で、メンバーなど17名と、お隣佐野市に出掛けて、天明宿を中心に史跡や神社・仏閣などを歩いて巡りました。
コースは、JR佐野駅から城山公園⇒観音堂⇒安蘇沼氏古城跡⇒オシドリ伝説の歌碑⇒金町通り・金吹通り⇒宝龍寺⇒金山神社⇒観音寺⇒惣宗寺(厄除け大師)⇒例幣使街道⇒JR佐野駅です。
佐野の街にはラーメンを食べに良く出かけていますし、3年程前には例幣使街道を歩いて、佐野の街を西から東へ横断した事も有りますが、今回のコースでは初めて行く場所が殆んどでした。
最初の「城山公園」は、駅の北側に隣接する史跡公園です。JR両毛線と東武佐野線とが乗り入れる駅舎は、平成15年(2003)に橋上駅に建て替えられた為、改札口を出た所の南北自由連絡通路を、北口「城山公園方面」に進むと、直接城山公園の芝生の広場に出る事が出来ます。
佐野駅.jpg南北連絡通路.jpg
(橋上駅舎の佐野駅)          (南北自由連絡通路、正面奥が北口、城山公園方面)

この公園は「佐野城跡」と言う佐野市の指定史跡に成っており、「ふるさと佐野100選」の案内板によると、≪三の丸・二の丸・本丸・北出丸の4つのゾーンからなる。明治22年9月、公園として開設された 春日岡城跡・佐野城跡とも言われるが、城は未完成のまま廃城となる。本丸の高さは約55.8m 南北約305m、東西約110m≫と記されています。
史跡佐野城址の碑.jpg佐野城址説明板.jpgふるさと佐野100選.jpg
(史跡 佐野城跡の碑) (佐野城跡案内板)         (ふるさと佐野100選案内碑)

ここで20分程自由散策と成りましたが、ここでそんなに時間取るのと始め思いましたが、園内を巡ると意外と広く、案内板の説明文を読んだり、石碑を見て歩くとあっと言う間に出発の時間に成っていました。
公園内の橋1.jpg公園内の橋2.jpg
(二の丸・本丸間の空堀に架かる橋)      (本丸・北出丸間の空堀に架かる橋)

次の目的地「観音堂」に向け城山公園を後にします。途中、久保町に有る真言宗豊山派の「金成院」と「西宮(蛭子)神社」に立ち寄り、その由緒沿革等を記した記念碑等を確認しました。
金成院.jpg蛭子神社.jpg
(久保町の遍明山金成院本堂)           (久保町の西宮神社、蛭子神社とも)

金成院の由来については境内に建てられた「山内整備事業記念碑」より抜粋すると、≪抑 大日如来を本尊とする金成院は、明治41年金胎寺・成就院・光明寺が合寺して成立した。金胎寺は、はじめ小野寺保に「八幡山松樹院金胎寺」として創建されたが、天文年間佐野秀綱により吉水郷に移され、更に元亀2年秀綱の曾孫昌綱によって再建されたと伝える。慶長7年唐沢山城主佐野信吉は、幕命により春日岡(城山公園)に新たな築城の工を起こし、天命の街割りを行った。金胎寺もその一環として吉水郷より現在地に移築された。(中略) 成就院は金胎寺第三世妙慶の開山になる寺であり、光明寺は朝日森天満宮別当で金胎寺の隠居寺であった。(後略)≫と記されていました。
西宮(蛭子)神社の説明板によると、「蛭子」には「ヒルコ」とルビがふられています。その下に「えびす様」と成っています。由緒沿革には≪(前半略) 当地西宮神社は「栃木県神社誌」によると大永3年(1523年)今から486年前、佐野根古屋青柳(今の栃本)に勧進したのが始まり唐沢城主佐野盛綱が祭るその後、唐沢の居城が春日岡(城山公園)に移るに伴い、東組屋敷に祭る。(中略) 元和2年(1616年)393年前小山城主本多上野介正純に給れ、翌元和3年社は正純の命により安蘇沼北久保に所替となる(現在地) (後略)≫と有りました。

西宮神社より東方向に向かう細い道を進むと観音山公園への登り坂に成ります。この小丘の東側中腹に引地山日向寺観音堂とその北隣りに日枝神社が祀られています。
この観音堂が栃木県内に分布する、「下野坂東三十三観音霊場」のひとつ、第二十七番札所・富岡の「引地山観世音」に成ります。栃木市の三級山近龍寺(二十四番)や出流山満願寺(二十九番)なども同じ霊場に入っています。
引地山観音堂.jpg日枝神社.jpg
(富岡町、引地山日向寺観音堂の彫刻)     (富岡町、日枝神社の彫刻)

≪後醍醐天皇の頃、富士泉応院の法師が天皇より賜わった観音像を同天皇の子、護良親王の死を悲しんだ南の局が泉応院から譲りうけて祀ったのが始まりで、当時は山の西に草庵を建て根光寺と言った。根光寺は南朝方であることから、北朝方の足利氏ににらまれ、本尊は沼に捨てられてしまった。その後越名の漁夫の網にかかり、阿武塚沼のほとりに安置されたが、阿曽沼の殿様に毎夜観音様が夢枕に立ち、元の所に帰りたいと云うので、永享三年富岡の岩山に移し、引地山日向寺観音堂と成りました。≫と伝えられます。
お隣に建つ日枝神社社殿ともども向拝部虹梁の龍の彫刻がなかなか立派な物です。

次の目的地は県道67号(桐生岩舟線)を横断して、南側の浅沼町へ向かいます。
ここに鎌倉時代に阿曽沼出羽守広綱が創建したと云う、浅沼八幡宮が有ります。社殿に向かい境内の右隅に一基の大きな石碑が建てられています。「佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡」と刻され、その碑陰には朗々と歌われる詩歌の如き碑文が刻まれています。
浅沼八幡宮.jpg阿曽沼城之跡碑.jpg
(浅沼八幡宮社殿)                    (佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡の碑)
碑文冒頭部を抜粋してみます。≪今ひらけゆく浅沼のあたり、むかし佐野庄阿曽沼郷の地、火山灰洪積地のはて、黒々とした沈黙をたたえる水面を、おしどりの遊ぶ、安蘇の沼のほとりであった。 鎌倉に源氏の幕府はじめられようとする十二世紀末、阿曽沼城は阿曽沼民部四郎広綱によってこの地に築かれ、以来四百年 戦国のおたけび山野を駆けるさなかまて、城の盛衰は、阿曽沼氏歴代とともにあり、その哀歓は、浅沼の地と人とともにあった。・・・(後略)・・・≫

そしてこの境内のいっかくに建てられた、「おしどり塚歌碑」も見学しました。
おしどり塚の歌碑.jpgふるさと佐野100選2.jpg
(浅沼八幡宮境内のおしどり塚歌碑) (ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」)

ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」説明文によると、≪自然石を使った碑面に「日くるればさそいしものを 安蘇沼のまこもがくれの ひとりねぞうき」とあり、裏面には天保2年(1831)とある。碑はもと相生町の千鳥が渕にあったが、明治年間に現在地へ移したものといわれ、昭和44年市の有形文化財に指定された。≫

佐野市の鳥に指定され、佐野駅前広場のモニュメントとして、この目地を訪れる人を迎え送る。又、佐野市の下水道のマンホール蓋の中央に描かれる、「おしどりのつがい」の姿がこの地に有る事を今回知る事が出来ました。
おしどり像.jpgおしどりマンホール蓋.jpg
(佐野駅前広場のおしどりのモニュメント)  (佐野市街地に設置されているマンホール蓋)

次はいよいよ「天明宿」へ入ります。
佐野東高校(元の佐野女子高)の脇を抜け、金屋下町・金吹町・金屋仲町と右に左に通りを抜けて、大祝町の宝龍寺へと歩を進めます。
元影澤医院.jpg日本基督教団佐野教会.jpg
(金屋仲町の元影澤医院の建物)     (国登録文化財の日本基督教団佐野教会)
影澤医院の建物は現在「日本クリケット協会」の本部と成っています。佐野市は、「クリケットのまち佐野」・「日本のクリケットの聖地」を目指して活動を展開しています。

細い路地をくねくねと歩きやっと次の目的地、大祝町の宝龍寺に到着。ここの見学は市指定文化財の「銅造阿弥陀如来座像」です。
宝龍寺.jpg銅造阿弥陀如来座像1.jpg
(大祝町の宝龍寺)                   (宝龍寺境内の銅造阿弥陀如来座像)
この阿弥陀如来座像は横に立てられた説明文によると、元禄七年(1694)天明の鋳工 丸山孫衛門尉藤原信次の作。像の高さは409cm。
この後に見学した、金井上町の観音寺に有る、同じく「銅造阿弥陀如来座像」は、寛文九年(1669)斎藤伝七郎久重、太田小左衛門尉藤原秀次、大川久兵衛藤原信正等三人の天明鋳物師たちの合作。
像の高さは313cm。こちらも市指定文化財に成っています。
観音寺.jpg銅造阿弥陀如来座像2.jpg
(金井上町の観音寺)                  (観音寺境内の銅造阿弥陀如来座像)

金井上町の観音寺への途中、「かねがみさま」と呼ばれて、鋳物師たちの信仰を集めていた「金山神社」にも立ち寄りました。
金山神社.jpg金山神社本殿.jpg
(金山神社拝殿正面扉に施された彫刻)       (金山神社本殿の彫刻)

観音寺の次に訪れたのは、西隣りに当たる「惣宗寺」です。佐野厄除け大師の名前で広く知られている寺院で、毎年正月三箇日の初詣には大勢の初詣客で大混雑となります。私もこれまで何度も訪れていますが、今回の参拝させて頂きました。
惣宗寺.jpg東照宮.jpg
(惣宗寺本堂の大伽藍)            (佐野東照宮社殿は県の有形文化財に指定)

最後の見学地は、又天明宿の町並みを見ながら、金井上町から大和町・天明町を歩き、大蔵町の星宮神社に向かいます。途中江戸街道では2階建て蔵造り、外壁は黒漆喰の呉服商の旧店舗「太田邸」や、昭和2年築の洒落た洋館「小島邸」を、そしてかつての日光例幣使街道(現県道67号)にて、江戸後期から明治に建てられた見世蔵が軒を連ねている風景を見せています。これは同じ例幣使街道の宿場町として栄えた「栃木の町並みにも共通するものです。
太田家住宅.jpg洒落た洋館.jpg
(太田邸の見世蔵を見学するメンバー)         (小島邸の洒落た洋館)
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(日光例幣使街道に見世蔵が並ぶ)     (土蔵の屋根のハナブカに土佐の文字)

栃木市の多くの見世蔵の屋根、鬼瓦の前にちょこんとついている「ハナブカ」、目的は良く理解していませんが装飾のひとつと思います、現在の味噌饅頭店「新井屋」の屋根のハナブカを見ると「土佐」と読める。これはこの建物が旧土佐屋薬局の一つの名残りと思われます。
この味噌饅頭店の横の道を北に進んで行くと大蔵町の星宮神社に突き当たります。

星宮神社銅造鳥居.jpg星宮神社拝殿.jpg
(星宮神社の銅造鳥居を見学する)     (星宮神社拝殿)
星宮神社の銅造鳥居は、≪享保二十乙卯年(1735)三月金屋町総鋳物師棟梁大工職という刻名がある。天明鋳物の名匠たちが協力し、天明宿の総氏子が奉納した明神鳥居である。昭和33年に市の有形文化財に指定された。高さ424cm、柱周囲106.05cm≫(ふるさと佐野100選説明文より)

ここから佐野駅まで戻り解散と成りました。
今回佐野市天明宿を巡り、あらためて天明は鋳物の街であることを実感しました。市内のいたる所に鋳物の作品を見る事が出来ました。今回天候にも恵まれ気持ち良く歩く事が出来ました。本日の私の総歩数は20,092歩に成りました。
天明鋳物の公衆電話ボックス.jpg
(佐野の街中に建つ天明鋳物製の公衆電話ボックス)
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