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長崎眼鏡橋と諫早眼鏡橋 [橋梁]

私の蔵書の中に「眼鏡橋 -日本と西洋の古橋-」と言うタイトルの1冊の本が有ります。
工学博士太田静六著で、昭和55年10月20日初版発行です。
眼鏡橋の本.jpg
その頃私は、栃木市内の河川に架けられた橋の写真を、探し回っては撮影して歩いていましたので、書店でこの本を見付け、ページをめくってみて、そこに多くの石橋の写真が掲載されていたので、早速購入したものです。
そこにはヨーロッパの今から2000年以前に建設された多くの石造りのアーチ橋・水道橋の写真などと共に、日本の九州地方に分布する石造りアーチ橋の写真が多数掲載されていました。
石造りのアーチ橋は栃木市内では、私の知っている限りでは、錦着山東南麓に架かる「八雲橋」ただ一ヶ所です。大正5年6月に石工の大塚藤吉さんに依って完成されたもので、どのような経緯で石造りのアーチ橋の形を採ったのか興味が有ります。
八雲橋1.jpg八雲橋2.jpg
(錦着山南東麓、風野堀に架かる石造りアーチ橋) (要石に陽刻された「八雲橋」の文字)

抑々、日本における石造りアーチ橋の分布は、そのほとんどが九州地方に偏っていると云います。上記の本に依ると造られた年代が分かっている中で一番古いと云われるのが、長崎市の中島川に架かる、あの有名な眼鏡橋で、寛永11年(1634)に長崎の唐寺・興福寺2代目住職黙子如定(もくすにょじょう)が架けたとされています。その後、明治の末までに架橋された石造りアーチ橋の数は、一番多いのは熊本県で150橋前後。次は鹿児島県ですがその数は熊本の半分以下の70橋位。三番目が大分県の50橋で、四番目が長崎県の約35橋であると書かれています。
私はこの「眼鏡橋」の本を入手してから、一度は長崎を訪れて実際に長崎眼鏡橋を見てみたいと思っていましたが今回、正月休みを利用してやっと見て来る事が出来ました。
現在の長崎眼鏡橋は、上記の本が発行された昭和55年の2年後、昭和27年(1982)の7月に発生した長崎大水害で半壊した為、翌年の10月に修復されたものです。
 <長崎眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:22m、橋の幅:3.65m、川面までの高さ:5.46m、
   ・2つの半円を描く石造り2連アーチ橋
   ・昭和35年(1960)、国の重要文化財に指定される。
 
私が実際に橋の上に立ったのは1月3日の午後3時30分、幸いに空は真っ青に晴れ渡り、風も無く最高の観光日和に成っていました。
長崎眼鏡橋の撮影ポイントは、下流側に架かる「袋町橋」の上からと、眼鏡橋と袋町橋の中間点の川の中に設けられた飛び石からの2ヶ所、二連アーチ橋が川面に映った姿が、まさに眼鏡の形を見せてくれています。
この日も多くの観光客がこの姿を写真に収めて居りました。
長崎眼鏡橋1.jpg長崎眼鏡橋2.jpg
(下流側「袋町橋」の上から撮影した「長崎眼鏡橋」) (左岸下流側親柱に「眼鏡橋」の文字)

長崎眼鏡橋3.jpg長崎眼鏡橋4.jpg
(下流側の川中に渡された飛び石上から撮影) (左岸上流側に建てられた「黙子如定の像」)

前出の「眼鏡橋」の本によると、≪中島川には橋が多く、かつ江戸時代には固有名詞がなく、呼ぶのに不便であったので、「長崎図誌」の著者が、上流の阿弥陀橋を第一橋として、順次下流の橋に番号をつけたという。例えば眼鏡橋は第十橋といった具合である。 (中略) なお現在の橋銘は地元の研究家、宮田安氏の説によると、明治15年頃に、当時の漢詩人、西道仙がつけたものが大部分だという。≫ 
第一橋から紹介すると、①阿弥陀橋、②高麗橋、③大井手橋、④編笠橋、⑤古町橋、⑥一覧橋、⑦芊原橋、⑧東新橋、⑨魚市橋、⑩眼鏡橋、⑪袋町橋、と成っています。

昭和57年(1982)に発生した長崎大水害により6つの石橋が全壊、眼鏡橋と袋町橋は半壊しています。半壊の2橋はその後復原修復され、その他の石橋は架け替えが行われました。
残念ながら今回私は、上記の全ての橋を見て来る事は出来ませんでしたが、機会が有ればまた訪問したいと思っています。
すすき原橋.jpg
(東新橋の橋上より上流方向を写す。手前の車が通行するのが「芊原橋」その奥が「一覧橋」)

翌日は、諫早眼鏡橋を見る為長崎市を後にしました。諫早市は長崎市の東隣りに位置しており、長崎自動車道を利用すると諫早眼鏡橋の有る諫早公園に、40分程で到着しました。
諫早眼鏡橋は、石造りアーチ橋の中では、一番早く国の重要文化財に指定されたものです。
昭和33年11月の指定は、長崎眼鏡橋の指定(昭和35年2月)より1年3ヶ月早いものでした。
<諫早眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:49.25m、橋の幅:5.5m、アーチ頂上の下面から常水面まで5.4m
   ・半円よりは小さな欠円の石造り2連アーチ橋
   ・一つのアーチスパンは17.35m、アーチ面を形成する円の半径は9.7m
   ・天保9年(1839)の架橋
諫早眼鏡橋1.jpg
(諫早公園内の池に移設された諫早眼鏡橋)

この眼鏡橋は、元は直ぐ北側を流れる本明川の450m程下流側に架けられていたものです。
前出の「眼鏡橋」の本によると、≪本明川は昔から氾濫の歴史を繰り返してきた。(中略) 昭和32年7月25日から26日にかけて襲来した未曽有の集中豪雨による大氾濫の結果、全市が水没して死者行方不明者数十人を出すという諫早史上、最大の惨事をひきおこした。(中略) この時に起こった本明川の氾濫が如何に凄まじいものであったかは言語に絶する程で、本明川に架けられていた昭和の現代橋はみな流失した。その中で、ただ一つ石造眼鏡橋だけが頑として動かず、そのため上流から流下してきた流木その他が眼鏡橋に塞止められてダム状になり、このダム状に溜まった濁水が、堤防を破って市街に奔流したため被害を一層大きくする結果と成った。≫
その昔、洪水のたびに橋が流出しては、不便を感じていた為、頑丈な石橋を架けたのだが、橋が壊れなかった事で、堤防の方が壊れたのだと、何とも言えない現実でした。その結果、この眼鏡橋を爆破して壊してしまえと云う市民の声が湧きあがり、それもやむなしと云う状況に成りました、一方当時の市長さんや有識者達に依る文化財保護運動とも相まって、眼鏡橋を解体して他の場所に移建する事となって現在の場所に設置されたと、その経緯が記されています。

諫早眼鏡橋2.jpg
(諫早眼鏡橋の五分の一の縮尺で精巧に作られた、本物そっくりのミニ眼鏡橋)
上の写真は、諫早公園の一角で見つけた、諫早眼鏡橋の精巧な五分の一縮尺で造られた模型だそうです。実際の眼鏡橋を諫早公園に移築復元する為に、橋の組立て方や強度など技術的なデータを収集する目的で造られたものと、脇に建てられた「眼鏡橋模型建設記念碑」にその経緯が記されていました。

眼鏡橋見学の後、商店街に設置されている眼鏡橋をデザインしたマンホール蓋の撮影と、そのマンホール蓋の図柄を採用したマンホールカードを貰って、長崎県を後にしました。
諫早眼鏡橋3.jpg諫早眼鏡橋4.jpg
(諫早市のデザインマンホール蓋)         (諫早市が配布しているマンホールカード)
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