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栃木市岩舟町小野寺の藤坂峠に建つ石碑 [石碑]

栃木市の中心市街地から西隣の佐野市葛生地区に自動車で抜けるルートは、現在3ルートが有ります。
ひとつは北東側から新会沢トンネルを抜けて会沢町に入る①「国道293号線ルート」、
新会沢トンネル.jpg
(国道293号線の新会沢トンネル。右側道路奥には旧「会沢隧道」有り。それぞれ一方通行)

二つ目は東側の柏倉町から、琴平神社が祀られている鞍掛山を越え長坂町に入る②「県道210号線ルート」、
琴平峠.jpg
(県道210号線鞍掛山の峠、佐野市と栃木市との境界)

そして三つ目は南東側の小野寺町から藤坂峠を越えて中町に入る③「県道282号線ルート」になります。
藤坂峠脇の石碑2.jpg
(県道282号線藤坂峠、佐野市と栃木市との境界)

これらの三つのルートを走って栃木市街地中心の倭町交差点から、佐野市葛生駅前までの距離と所要時間を私の車のカーナビにて検索してみました。
検索結果は、①国道293号線ルート:17.2kmで27分間。②県道210号線ルート:16.7km、31分間。③県道282号線ルート:16.8km、29分間。その違いは距離にして500メートル程度、所要時間も4分間程の差異しか有りません。
倭町交差点と葛生駅前との2点間の直線距離は11.4kmです。その最短距離に一番近いルートは、②の県道210号線ルートなのですが、鞍掛山の峠の標高が約310メートルと他の2ルートより高く、その為山間部ではヘアピンカーブなど含めて大小40か所のカーブを走るため、所要時間が一番掛かってしまう結果になりました。
一方走行距離が一番長い北回りの、①国道293号線ルートが、所要時間が一番短くなっています。ちなみのこのコースの標高の最高点は会沢トンネル部で約180メートル、一方南回りの小野寺町の藤坂峠の標高は一番低く約160メートルになっていました。

今回紹介する石碑は、この一番標高が低い小野寺町から佐野市中町に抜ける、藤坂峠の佐野市との境界手前、道路の右手脇の雑木の中に隠れる様に建てられています。
藤坂峠脇の石碑3.jpg
(県道282号線の道路脇、雑木に埋もれるように建つ石碑)

車を道路脇に止め、石碑の内容を確認するためガードレールをまたいで雑木の中へ。
石碑は道路から見えた物のほか、少し小さな石碑そして石仏3体が並んで祀られています。
藤坂峠脇の石碑1.jpg
(雑木林の中に、大小2基の石碑と、馬頭観世音などと刻された石仏が建つ)

一番大きな石碑には「隧道竣工記念碑」そして碑銘の左横に小さく「栃木懸會議員野尻金一郎書」、その下に更に小さな文字で「石工小田鐵碩」と刻されています。碑銘の文字を記した「野尻金一郎」という人物は肩書に有る通り、昭和9年(1934)の県議会補選に当選し、同10年9月まで県政発展に貢献。同年12月推されて第12代小野寺村長となり、同20年(1945)12月まで務め、戦時下の最も困難で多難な時代の村政につくした人です。<石崎常藏著の「栃木人」より>
碑陰には工事に関係した人達の名前が列記されているようですが、雑木が石碑に覆いかぶさるようになって上部が確認できない状態です。下部に≪小野寺村長 野尻金一郎、仝前村長 越沼忠三郎、仝助役 栗原真三郎、仝収入役 阿部善三郎≫等31名の名前が確認できます。
隧道竣功記念碑1.jpg隧道竣功記念碑2.jpg
(碑面に「隧道竣工記念碑」と大きく刻くされている)(碑陰は雑木に覆われ確認出来ない)

その右隣に建てられた石碑には「殉難者之碑」の文字。碑陰を見ると、「昭和十年三月二十七日殉難」として4名の人の出身地と名前。又、「仝年七月八日殉難」として1名の名前が刻されています。そして左端に「建碑寄附者」として、「一金拾五圓也 佐野町 金井歯科醫院」、その下に「一金拾圓也 岩舟村 川島石材店」が確認できます。この隧道工事にて亡くなられた方々を慰霊する為に建てられた石碑です。
殉難者之碑1.jpg殉難者之碑2.jpg
(「殉難者之碑」と刻された石碑)       (碑陰には工事中に亡くなられた5名の名前が)

現在は切り通しになっているこの藤坂峠に、かっては隧道(トンネル)が造られていたことを、これらの石碑が伝えています。それではこの「藤坂隧道」は昭和10年頃に造られたようですが、何時また姿を消してしまったのか。
私の手元に国土地理院発行5万分1「栃木」の地形図が3枚有ります。それらを広げて見ると、明治42年発行の地形図には確かにトンネルは出来ていません。次の昭和32年発行の物に、小野寺の中妻を北上する道路が葛生町との境界線付近で破線で記されています。またその右横の境界線の両側にトンネルの記号らしき物が記されていますが、道路はつながっていません。そして三枚目の平成11年発行の地形図では、すでにトンネルは消えています。ただ道路東側に石碑の地図記号が記されています。

文章での説明が上手くないので、概略図を用意しました。中央の石碑記号のある場所が「藤坂峠」、峠の南西側に標高324メートルの諏訪岳、北東側にはかって標高344メートルの絹ヶ岳が有りましたが、現在は石灰採掘のため姿を消しています。そしてその絹ヶ岳の北麓に有った切通坂を越えて東西に通っていた県道126号線はその区間の通行が出来なくなってしまいました。
藤坂峠周辺概略図.jpg
(藤坂峠の有る佐野市と栃木市との境界付近の概略図)
※略図中、茶色で描いた道路は明治42年発行の5万分1地形図「栃木」を参考にしています。

藤坂隧道に話を戻します。殉難者之碑より隧道は昭和10年頃に完成したのは確かなようです。それでは何時消えたのか、それを確認する為、岩舟町の資料を調べてみました。そして判明しました。
まず、岩舟町が昭和49年3月に発行した「岩舟町の歴史」の中に掲載された年表を確認すると、≪昭和10年(1935)藤坂隧道開通≫の記載が有ります。又、同じく岩舟町が昭和52年(1977)に発行した「二十年の歩み 岩舟町合併20周年記念特集号」に掲載された年表に、≪昭和46年(1971)2月藤坂トンネル取りこわし工事≫の記載が有り、「姿を消した藤坂トンネル」と説明された「トンネル」の写真が掲載されています。
写真を見た限りでは、トンネルの幅や高さは分かりませんが、入り口側から出口側が見えることから、そんなに長くなかった(20メートル程か)様です。
なぜこの年藤坂トンネルが取り壊されたものか、その理由を記したものは確認できません。それ以降ここ藤坂峠は幅広の切通しと変わり、現在では多くのダンプカーが往来する道路となっています。
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コメント 2

じんじん

こんばんは。
このブログは、とても勉強になります。素晴らしい調査ですね。ご自分で動いて、文献を探して、きちんと書かれているので、正しく参考になります。
この峠は地図にも名前がなかったので「小野寺と中を通る峠」と呼んでいましたが、田沼の知人から「藤坂峠」と教えてもらいました。ちょうど、名前の通り、石碑の上に藤の花が咲いていました。
by じんじん (2019-04-26 18:57) 

ガーゴイル

東武線の大平下駅から太平山神社を経由する葛生駅への線路を建設しよう。
by ガーゴイル (2022-09-20 17:26) 

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