小山市の摩利支天塚・琵琶塚の両古墳から天平の丘公園周辺を歩く [歩く]
今日、「歴史と文化を歩く会-栃木-」の5月例会にて、小山市の摩利支天塚と琵琶塚の二つの前方後円墳から、下野市の天平の丘公園周辺を歩いて巡ってきました。
まず栃木の街から、歩き始める思川に架かる大光寺橋近くまで、栃木市のふれあいバスを利用して移動しました。
(思川に架かる大光寺橋近くまでバスで移動) (大光寺橋から美田東部頭首工を望む)
大光寺橋を渡って歩くのは、現在の橋が完成した渡り初めの日(2016年3月12日)に歩いた以来です。
現在、栃木県ではアフターデスティネーションキャンペーンに合わせて「とちぎ橋カード」24種類を配布していますが、その1枚にこの「大光寺橋」が栃木市で初めてカード化されています。
又、同じく今年小山市が市内の土地改良区が管理している「土地改良施設」の写真をカード化して配布した中に、ここ大光寺橋上流部に設置されている「美田東部頭首工」も有ります。
(大光寺橋のとちぎ橋カード) (美田東部頭首工の小山市土地改良施設カード)
大光寺橋のカードの写真は、上空からのアングルで、手前が新しい橋でその上流側に、前の橋が写っています。更にその後方に美田東部頭首工も見えます。現在は中央の古い大光寺橋は解体撤去されて無くなっています。このカードの写真は貴重な一枚です。
また、こうしたカードは多くの貴重な情報を提供してくれます。カードの裏面にその施設の構造や歴史など色々な豆知識が載っています。
横道にそれました元に戻します。大光寺橋を渡りきると下野市に入ります。道路の左手に寺院が見えてきます。浄土真宗本願寺派紫雲山蓮華寺です。本堂の手前右側の掲示板に「親鸞聖人花見ヶ岡大蛇済度之縁起」の紹介が有りました。
(紫雲山蓮華寺) (掲示板にて見える、大蛇済度之絵伝)
ここから車道から分かれ、右手の細い野道に入ります。「関東ふれあいの道」になります。
(入口に建てられた道しるべ) (途中にも「関東ふれあいの道」の道標が)
20分ほど雑木林や田畑の中の細い道を進むと、再び車道に出ます。県道18号です。この道は「旧日光西街道(壬生通り)」になります。ここを南方向に歩くと早々に道路の両側に小さな塚が現れます、「飯塚一理塚」です。
(史跡、飯塚一里塚・東側) (史跡、飯塚一里塚・西側)
一里塚を過ぎると、街道の東側田畑の先、杉木立が林立する中に、滑らかな曲線を描く前方後円墳が見えてきます。今回の目的地のひとつ、「琵琶塚古墳」です。
(旧日光西街道壬生通りから眺める琵琶塚古墳、木立の中に緩やかな曲線を覗かせている)
琵琶塚古墳を横目に、まずはその先に有る同じく前方後円墳の「摩利支天塚古墳を目指して歩きます。
摩利支天塚古墳の頂上には、摩利支天尊を祀った社殿が建てられており、登り口には石の鳥居も建てられています。
(摩利支天塚古墳登り口前に建つ鳥居) (墳頂に祀られた社殿に向かう石段)
摩利支天塚古墳について、登り口に建つ説明文を紹介すると、
≪摩利支天塚古墳は、隣接する琵琶塚古墳とともに県内で最大の規模を誇る大形の前方後円墳です。後円部の墳頂には後年になって摩利支天社が祠られ、今に至っています。墳丘は自然の微高地を利用して築かれたもので、その周囲には幅20mを越える大規模な周湟がめぐらされています。(中略) この古墳の築造年代は、5世紀末から6世紀初頭と推定されます。(後略)≫
墳形:前方後円墳 全長:約117m
前方部:幅約75m、高さ約7m
後円部:直径約70m、高さ約10m
昭和53年7月21日、国の史跡に指定されています。
(摩利支天塚古墳の説明板) (摩利支天塚古墳を後にするメンバー)
次にすぐ北側に有る、琵琶塚古墳に向かいました。
(琵琶塚古墳の説明板) (琵琶塚古墳を登る)
この古墳は先の摩利支天塚古墳より前の、大正15年2月24日に国の史跡に指定されました。
築造年代は6世紀前半で摩利支天塚古墳に次ぐものと考えられていると、記されています。
古墳の規模は 墳形:前方後円墳 全長:約123m
前方部:幅約70m、高さ約9m
後円部:直径約75m、高さ約11m
この日、これらの古墳には多くの見学者が訪れていました。
(琵琶塚古墳を見学する小学生達)
(琵琶塚古墳を下りる)
(東方向から望む琵琶塚古墳全容)
昨年(2018)4月にこの琵琶塚古墳の近くに開館した、「国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」を見学して、下野市の天平の丘公園へ向かいます。
(史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館) (古墳資料館展示室内)
天平の丘公園は、雑木林の中に広がっていました。まず名前が気になる「紫式部の墓」の元に向かいました。
(天平の丘公園の案内板が有りました) (「紫式部の墓」と言われる五輪の塔)
「紫式部の墓」と言われる五輪の塔は、鎌倉時代の様式。この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。この付近は「紫」という地名であることから、そのように言われるようになったと、説明板に記されていました。
天平の丘公園の中を歩いていると、木々の緑が木漏れ日に輝いて気持ちの良い風景に包まれたようです。
(天平の丘公園の中は木漏れ日に輝く木々の緑が目に優しかった)
その後は「下野風土記の丘資料館」を見学し、国分寺跡を通ってスタート地点の大光寺橋を目指しました。
(しもつけ風土記の丘資料館) (スタート地点の大光寺橋を渡る)
本日の歩数は、17,126歩(約1km)でした。
今回の参加者17名、全員最後まで元気で歩き通しました。
まず栃木の街から、歩き始める思川に架かる大光寺橋近くまで、栃木市のふれあいバスを利用して移動しました。
(思川に架かる大光寺橋近くまでバスで移動) (大光寺橋から美田東部頭首工を望む)
大光寺橋を渡って歩くのは、現在の橋が完成した渡り初めの日(2016年3月12日)に歩いた以来です。
現在、栃木県ではアフターデスティネーションキャンペーンに合わせて「とちぎ橋カード」24種類を配布していますが、その1枚にこの「大光寺橋」が栃木市で初めてカード化されています。
又、同じく今年小山市が市内の土地改良区が管理している「土地改良施設」の写真をカード化して配布した中に、ここ大光寺橋上流部に設置されている「美田東部頭首工」も有ります。
(大光寺橋のとちぎ橋カード) (美田東部頭首工の小山市土地改良施設カード)
大光寺橋のカードの写真は、上空からのアングルで、手前が新しい橋でその上流側に、前の橋が写っています。更にその後方に美田東部頭首工も見えます。現在は中央の古い大光寺橋は解体撤去されて無くなっています。このカードの写真は貴重な一枚です。
また、こうしたカードは多くの貴重な情報を提供してくれます。カードの裏面にその施設の構造や歴史など色々な豆知識が載っています。
横道にそれました元に戻します。大光寺橋を渡りきると下野市に入ります。道路の左手に寺院が見えてきます。浄土真宗本願寺派紫雲山蓮華寺です。本堂の手前右側の掲示板に「親鸞聖人花見ヶ岡大蛇済度之縁起」の紹介が有りました。
(紫雲山蓮華寺) (掲示板にて見える、大蛇済度之絵伝)
ここから車道から分かれ、右手の細い野道に入ります。「関東ふれあいの道」になります。
(入口に建てられた道しるべ) (途中にも「関東ふれあいの道」の道標が)
20分ほど雑木林や田畑の中の細い道を進むと、再び車道に出ます。県道18号です。この道は「旧日光西街道(壬生通り)」になります。ここを南方向に歩くと早々に道路の両側に小さな塚が現れます、「飯塚一理塚」です。
(史跡、飯塚一里塚・東側) (史跡、飯塚一里塚・西側)
一里塚を過ぎると、街道の東側田畑の先、杉木立が林立する中に、滑らかな曲線を描く前方後円墳が見えてきます。今回の目的地のひとつ、「琵琶塚古墳」です。
(旧日光西街道壬生通りから眺める琵琶塚古墳、木立の中に緩やかな曲線を覗かせている)
琵琶塚古墳を横目に、まずはその先に有る同じく前方後円墳の「摩利支天塚古墳を目指して歩きます。
摩利支天塚古墳の頂上には、摩利支天尊を祀った社殿が建てられており、登り口には石の鳥居も建てられています。
(摩利支天塚古墳登り口前に建つ鳥居) (墳頂に祀られた社殿に向かう石段)
摩利支天塚古墳について、登り口に建つ説明文を紹介すると、
≪摩利支天塚古墳は、隣接する琵琶塚古墳とともに県内で最大の規模を誇る大形の前方後円墳です。後円部の墳頂には後年になって摩利支天社が祠られ、今に至っています。墳丘は自然の微高地を利用して築かれたもので、その周囲には幅20mを越える大規模な周湟がめぐらされています。(中略) この古墳の築造年代は、5世紀末から6世紀初頭と推定されます。(後略)≫
墳形:前方後円墳 全長:約117m
前方部:幅約75m、高さ約7m
後円部:直径約70m、高さ約10m
昭和53年7月21日、国の史跡に指定されています。
(摩利支天塚古墳の説明板) (摩利支天塚古墳を後にするメンバー)
次にすぐ北側に有る、琵琶塚古墳に向かいました。
(琵琶塚古墳の説明板) (琵琶塚古墳を登る)
この古墳は先の摩利支天塚古墳より前の、大正15年2月24日に国の史跡に指定されました。
築造年代は6世紀前半で摩利支天塚古墳に次ぐものと考えられていると、記されています。
古墳の規模は 墳形:前方後円墳 全長:約123m
前方部:幅約70m、高さ約9m
後円部:直径約75m、高さ約11m
この日、これらの古墳には多くの見学者が訪れていました。
(琵琶塚古墳を見学する小学生達)
(琵琶塚古墳を下りる)
(東方向から望む琵琶塚古墳全容)
昨年(2018)4月にこの琵琶塚古墳の近くに開館した、「国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」を見学して、下野市の天平の丘公園へ向かいます。
(史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館) (古墳資料館展示室内)
天平の丘公園は、雑木林の中に広がっていました。まず名前が気になる「紫式部の墓」の元に向かいました。
(天平の丘公園の案内板が有りました) (「紫式部の墓」と言われる五輪の塔)
「紫式部の墓」と言われる五輪の塔は、鎌倉時代の様式。この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。この付近は「紫」という地名であることから、そのように言われるようになったと、説明板に記されていました。
天平の丘公園の中を歩いていると、木々の緑が木漏れ日に輝いて気持ちの良い風景に包まれたようです。
(天平の丘公園の中は木漏れ日に輝く木々の緑が目に優しかった)
その後は「下野風土記の丘資料館」を見学し、国分寺跡を通ってスタート地点の大光寺橋を目指しました。
(しもつけ風土記の丘資料館) (スタート地点の大光寺橋を渡る)
本日の歩数は、17,126歩(約1km)でした。
今回の参加者17名、全員最後まで元気で歩き通しました。
2019-05-16 23:34
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