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日光例幣使街道、犬伏宿周辺を歩く [歩く]

今日は、日光例幣使街道の宿場の一つ、犬伏宿周辺の神社仏閣などを歩いて巡ってきました。
「歴史と文化を歩く会-栃木-」の6月例会で、20名のメンバーが参加しました。
昨日は一日激しい雨が降り続いていた為、今日の天気を心配していましたが、開けてみれば雨も止んで、曇り空で日差しが遮られている為、暑くもならず絶好のウォーキング日和となりました。
私の住む栃木市には日光例幣使街道の13宿の内、「富田宿」・「栃木宿」・「合戦場宿」・「金崎宿」の4つの宿が有りますが、今回向かった佐野市にも「天明宿」と「犬伏宿」の2つの宿場が有りました。
「天明宿」周辺は、昨年12月の例会で歩いていますので、今回の「犬伏宿」はそれに続くものです。
堀米付近略図.jpg犬伏宿概略絵図.jpg
(今回歩いた犬伏宿周辺の様子を資料の古地図を基に概略図に描いてみました)

栃木駅に集合してJR両毛線にて佐野駅へ。佐野駅北口を出てさっそく犬伏宿に向かいます。
最初に向かったのは犬伏上町の台元寺です。
台元寺1.jpg台元寺2.jpg
(犬伏上町に入るとすぐ道路の右手に佐野百観音のお寺、台元寺です)
台元寺は佐野市仏教会が2015年5月31日に発行した小冊子「縁 出会いにありがとう」の中で、≪佐野厄よけ大師(惣宗寺)第13世三海大僧正が慶長6年(1601)3月創立。県重要指定文化財であり、佐野ブランド認定寺院である「佐野百観音」は天明鋳物で造られ、100箇所ある日本百観音霊場全ての観音さまを一ヶ所で参拝することができる。≫と、紹介をしています。しっかりと参拝をさせて頂きました。

次に見学をしたのは「光徳寺」です。街道を東に進み犬伏中町と下町の境となる交差点を右に入ります。南に少し進むと右手に「西蓮寺」、その山門前を過ぎた先、道路の左側の現れる山門が「光徳寺」になります。
光徳寺1.jpg光徳寺2.jpg
(山門を潜り光徳寺境内へ)               (天満宮の祠横に神木の「びゃくしん」)
上記の小冊子には、≪当寺は唐沢山の城主藤原藤太秀郷の娘富士姫と家臣の柏崎光徳(藤原道真良臣の一人)との悲恋の末、富士姫が佐野の川瀬(犬伏中町のお姫河原)に身を投じ、この事を光徳聞き富士姫を探すと水中に金像の弥陀の護身仏あり(関川町三杉川)、光徳弥陀の金像を引揚げ本尊とし一宇を建立す。光徳がその後出家し富士姫の菩提を弔う。秀郷これを聞きさらに一寺を建立し東明山天幡院光徳寺と号す(光徳寺縁起より)光徳寺はこのように千年余の昔から地域に根ざした寺です。≫と、紹介されています。
又、境内には「ふるさと佐野100選」の、「光徳寺のびゃくしん」が有ります。光徳寺開基の柏崎光徳のお手植えの神木として伝えられている。常緑喬木で中国や朝鮮に多く、わが国には少なく貴重なものであり、昭和34年に市の天然記念物に指定されています。

街道に戻り更に東に進むと、道路右手に市立犬伏小学校が。この場所にはかつて犬伏宿の本陣が有った跡となりますが、その面影を残すものは何も有りません。小学校前の街道に渡した歩道橋を登り、犬伏宿北側の脇道を北進して「大庵寺」へ向かいます。
歩道橋の上から犬伏宿の街道を眺めることに。
犬伏宿の通り(東).jpg
(東方向を望む。道路右手が犬伏小学校、街道奥突き当たりの小丘が米山古墳)
犬伏宿の通り(西).jpg
(西方向を望む。手前信号機交差点を左方向に入った所が「光徳寺」になります。)

大庵寺への参道入口角に「南無阿弥陀仏」と陰刻した常夜灯が建てられています。参道を進んで山門を潜ると駐車場の有る境内へ。境内には多くの石仏や石碑が建てられています。
大庵寺1.jpg大庵寺2.jpg
(街道からの入口に建つ常夜灯)           (緑豊かな大庵寺境内)
大庵寺3.jpg
(多くの石仏を見学する歩く会メンバー)

次に向かうのは犬伏町の鎮守「鷲宮神社」です。一度街道に出て、西方向に歩き犬伏上町に戻り、そこで北に進む道に入ります。道路の前方に鳥居が覗いています。街道から鳥居までは約300メートル程有ります。その途中で道路右手に風情のある塀が現れました。鷲宮神社の社務所の様です。門扉を入ったすぐ右手に「史跡大桝塚古墳と刻された石の標柱が建っています。
鷲宮神社への道.jpg大桝塚古墳の標柱.jpg
(鷲宮神社社務所の風情ある塀。道路奥に鳥居が)  (史跡大桝塚古墳の標柱)
「大桝塚古墳」はこの標柱の当方に見える小丘。説明によると≪この古墳は2段に築かれた方墳で、周囲の平地に濠跡と思われる低地があり、その外側に小土手の一部が残っている。盗掘の跡がなく、よく保存されている。大きさは、下段底部の径36.3m、上部の径25.4m、高さ5.45mである。≫と成っています。

鳥居の方へ進むと、次第に鳥居が大きくなってきます。鳥居を潜って社殿前に向かいます。
鷲宮神社鳥居.jpg鷲宮神社.jpg
(鷲宮神社参道入り口に建つ石の鳥居)     (境内にはご神木となる見事な杉の木が)
「鷲宮神社の杉」は「ふるさと佐野100選」にも成っています。≪樹高約20m、直径1.5m、樹齢は約600年≫との説明が有りました。

最後に向かったのは堀米町、天明宿から北上した街道が突き当たった場所に建つ「妙顕寺」です。
妙顕寺1.jpg妙顕寺2.jpg
(一直線に伸びる犬伏宿の街道の西側の端に位置する日蓮宗の寺院「妙顕寺」)
先の小冊子によると、≪当山の草創は、永仁二年(1294)中老僧天目上人の開創。唐沢城家老若田部源五良光盛公の屈請により一宇を創し、山を開本と称し寺を妙顕と号す。是即ち本国土妙一時開顕の意なり。慶長七年(1602)唐沢城天明春日山移築に際し当山も春日山城鬼門除として現地に移る。妙顕寺は日蓮宗の由緒寺院、本山の称号で呼ばれる。≫と、紹介されています。
又、「佐野市観光協会・佐野市観光立市推進課」の発行する、佐野観光ルートガイドの小冊子「佐野めぐり」の中で、≪妙顕寺本堂の扁額「開本山」は甲申事件で日本に亡命した金玉均の書によるもの≫との、紹介がされています。
妙顕寺4.jpg妙顕寺3.jpg
(左、井伊家と右、藤原家の累代尊霊供養の石碑)  (「金玉均」書による「開本山」の扁額)
堀米町と井伊家との関係は、寛永10年(1633)近江彦根藩領となり、万治2年(1659)には堀米村に彦根藩佐野領15ヵ村を取り仕切る彦根藩の陣屋が置かれた事によります。日光例幣使街道が整備されると堀米町は犬伏町の加宿となっています。嘉永6年(1853)3月日光社参の帰途領内を巡視した井伊直弼は、当地に有った飯売旅籠を全廃させることも有りました。天応寺には井伊直孝・直澄・直弼の墓碑が有ります。(「角川日本地名大辞典9栃木」より抜粋)

妙顕寺を後にして、佐野駅に戻りました。
本日も多くの発見が有りました。歩いた総歩数は、15,572歩になりました。
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