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大皆川町の田んぼ脇に建てられた「報徳碑」 [石碑]

栃木市街地の西方に、かつての皆川村の大字のひとつ大皆川、現在の栃木市大皆川町と言う地域が有ります。、北側の千塚町や宮町から南流してきた永野川が、太平連山から北東部に張り出した舌状台地に、行く手を阻まれた形で大きく円弧を描いて、その流れを東方向に変える、その内側となる永野川右岸に位置しています。
永野川の西から南西側の対岸は皆川城内町、南東側は岩出町と成っています。
今回の石碑はそんな大皆川町の西域、家屋脇水田の畔の上に建てられています。
報徳碑1.jpg報徳碑3.jpg
(家屋をバックに水田に面して建つ石碑3基)(一般の石碑より厚さが薄い)

私が撮影に訪れた日は、梅雨の冷たい雨がシトシトと降っていました。
報徳碑2.jpg
(3基並ぶ石碑は、中央が碑文を刻した主碑、両側は普通碑陰に刻される関係者芳名一覧)

中央に建つ石碑の表面に刻された文字を書き写しました。□は判読する事が出来なかった文字の箇所になります。
報徳碑(碑文).jpg
石碑上部の篆額の文字「報徳碑」は、建立時に陸軍大将従二位勲一等伯爵であった、山縣有朋によるもの。碑文は大日本帝国神道修正教官長の新田邦光の撰文であるとが、碑文冒頭に刻されています。明治初期の日本政界及び宗教界で活躍された人物の名前でまず驚かされます。
碑文は「晃山峩峩 永川滾滾」と韻を踏んで始まっています。「こうざんがが えいせんこんこん」これは何を描写したものか、私のお粗末な頭で考えてみた。「晃山峩峩」は皆川の地の南側に東西に連なる「晃石山」を最高峰に連なる山々の事か、そして「永川滾滾」とは皆川の地を貫流する「永野川」の流れを詩的に表現したもの。次に続く「螺貝丘」は通称「法螺貝城」と呼ばれた「皆川城」の事。やっとの事でそこまで読み込むのですが、その後が続かない。どのように読んで行けば良いのか、遅々として読み進むことが出来ない。
「文糸翁」とか「關口保」「長沼五郎秀宗」など単語として読みとれますが、文章として成り立たない。「長沼五郎」と云えば1159年頃に小山城を築いた、下野大掾「小山政光」の二男「宗政」で、下野国芳賀郡長沼に居を構え「長沼氏の祖」が思い浮かんできますが。又、「秀宗」の名前は、第二次皆川氏の祖の事と思われます。西隣、皆川城内町の金剛寺境内に有る、皆川家歴代祖廟の中に「初祖長沼秀宗公」と記された墓石が見られます。その説明文に「永享元年(1429)会津田島より移住」と記されています。
金剛寺の伝によると秀宗は下野国に移り、初め岩田郷皆川庄滝の入に住み、その後白山台に移った。更に観音山に築城したとしています。
皆川家累代墓所.jpg皆川秀宗の墓.jpg
(金剛寺、皆川家歴代祖廟)      (長沼秀宗公墓前に立てられた表示版)

こうして観るとこの「報徳碑」の人物は皆川家に関係した人との推定が成される。碑文にはその人物の人となりが、縷々と記されていますが、私には難解な漢文で読み切れません。
このブログで前に紹介した、細堀町の田んぼの畔に建てられた石碑の場合の様に「大川鴻山先生碑」と有れば、誰の為に建てられた石碑か一目瞭然なのですが、今回の石碑はその人物にたどり着くことがなかなか出来ません。
碑文の最後に記された日付けは、「紀元貮千五百五十五祀愛景」と記されています。これは西暦にすると「1895年」、この年日本は日清戦争に勝利し下関にて「日清講和条約」が締結された時です。

次に中央に建つ主碑の両側の石碑に目を向けてみます。
まず左側の背の高い石碑。上部に「主師高恩」の文字。その下に多くに人物の名前が連ねられています。その筆頭には、「衆議院議員の新井章吾」皆川村の北東側に隣接する吹上村の出身。次に「県会議員の高久倉蔵」、この人は同じ皆川村出身で、大皆川の東隣り泉川の生まれ。この人物は後に第九代皆川村長や、明治41年(1908)の第10回衆議院議員選挙にも当選して活躍をした人の様です。≪石崎常蔵著「栃木人・明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」を参照させて頂きました。≫
その他には「里長」「親友」「親戚」故旧」「門人」「世話人」等の名前が続いています。
日付けは「明治廿八年七月」と刻されています。
主師高恩(左).jpg主師高恩(右).jpg
(碑に向かって左側に建つ「主師高恩」碑)  (碑に向かって右側に建つ「主師高恩」碑)

そして、右側の小ぶりな石碑を見ると、左側の石碑同様「主師高恩」と有ります。
その筆頭には「門人」として、「村長関口豊次郎」の名前。村長とはもちろん地元皆川村の長になります。
「門人学友」の次に「皆川旧臣」として7名の名前が連なっています。下段には「門人」そして「発起人」達の名前になります。下段は雑草に遮られて名前が確認できない所が有りました。

改めてこれらの石碑の主人公は誰なのか考えてみます。
「門人」とする名前が多く連なっている所から、先の細堀町の石碑「大川鴻山先生」の「錬武館」のような剣道場を設けて多くの門下生を教えた人物なのか。明治初期の大皆川の教育機関を調べてみると、明治5年8月2日に日本最初の近代的学校制度を定めた「学制」が太政官より発せられると、栃木の周辺地域でもそれぞれの村で私塾的な教育施設が出来てきます。大皆川にも関口源治氏による「分校国宝舎」が開校しています。この人は先に記した村長関口豊次郎氏の父親になります。しかし碑文の中に「源治」の名前は見つかりません。発起人の名前の中に「関口」と言う文字が多くみられますし、碑文の中にも「關口」の名前も認められますから、関口姓の人物で間違いないと考えますが、この石碑の建つ地区「西大皆川」には現在も約100軒の住居が有りますが、その内関口姓は13軒確認されますので、特定は出来ません。昭和33年8月15日発行「皆川廣照伝」(編者:近藤兼利)の付録「皆川先祖譜代家臣録」の中にも、大皆川に「關口」姓が10名分確認されますから、ここからも絞り込みは出来ません。(皆川先祖譜代家臣録の中に収められている「關口」姓の人物は一番多く68名数えられています。)
この石碑に関しては今後も調査を進めていきたいと考えています。

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