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千塚町八幡宮境内に建つ石碑 [石碑]

栃木市の北西部星野町から、鍋山町・大久保町・梅沢町・尻内町と寺尾地区を、南東方向にほぼ一直線に流れ下った永野川が、吹上地区の仲方町と千塚町との境界付近から、流れを僅かに南に変えて吹上地区の西部に位置する千塚町と宮町のほぼ中央部を南流しています。
今回訪れた千塚八幡宮は、栃木の市街地から県道32号(栃木粕尾線)を北に走り、千塚小学校の先の歩道橋の架かる交差点を左折し、西に向かい永野川に架かる「千塚橋」を渡り、永野川の西岸域側にせり出している足尾山地の東の縁、山裾から少し石段を上がった所に祀られています。
千塚町八幡宮.jpg
(千塚橋の西方300メートル、道路の右側に参道入口の石の鳥居)

参道登り口に建つ案内板によると、主祭神誉田別命(ほんだわけのみこと)、境内地1,577坪、旧社格指定村社、本殿一間社流造柿葺、拝殿入母屋造瓦葺と成っています。
千塚八幡宮社殿.jpg
(石段を上った先に現れる、八幡宮社殿)

今回の石碑は八幡宮の社殿に向かって右隣に建てられています。
石碑全景.jpg
(社殿右手に建つ石碑)

石碑の上部篆額には「御大典記念」と有ります。
篆額.jpg
(石碑上部、「御大典記念」と篆書体文字が陽刻されています)

碑文最後に記されている「昭和3年11月吉辰」で明らかなように、篆額に有る「御大典」とは昭和天皇の即位の礼から大嘗祭等の一連の儀式を総称した言葉の様です。この年昭和3年には、日本各地で御大典を記念した行事や事業が計画執り行われたようです。そしてそうして実施された事業内容を記した記念の石碑が各地に建立されています。
ちなみに、この篆額の文字は、碑文冒頭に記されている「内務大臣、望月圭介」によるもので、この人物は御大典の時(昭和3年)、内務大臣に就任して御大典の警備最高責任者でした。

碑文に目を通します。昭和の初期に建立された石碑ですが、ありがたいことに非常に読みやすい、漢字とひらがなの文章です。明治期の漢文体や、戦前の漢字とカタカナで埋め尽くされた碑文は、とても読み解くことが難解な石碑が多いのですが。

碑文写し.jpg碑陰写し.jpg
(碑文を読みうつしました)            (碑陰の寄附者芳名一覧)

碑文によりますと御大典記念事業として、八幡宮氏子らが相談をして神社拝殿の改築、境内の整備を行った事などが記されています。そして、碑陰にはこの事業に寄付を行った多くの人達の名前が連ねられています。その数は、篤志寄附者として52名、寄附者として115名の名前と寄附の内容が記されています。
寄附金の額を集計してみると3,755円。最高寄附金は300円、一番多い寄付金額は6円で34名おりました。
これらの金額は現在の価値にしてみるとどの程度になるものか、昭和初期の物価などを調べて私なりに推定を試みました。その結果として寄付金の合計は2,854万円程度になるものと思われます。300円は現在では200万円以上となり、まさに高額寄附者と言うことにまります。
寄附者115名に内容を見ていくと、高久姓が一番多くて35名、次に横倉姓13名、その後には柴姓9名、名渕姓・臼井姓7名と続いています。
現在の千塚町の主要苗字をゼンリン住宅地図にて確認してみると、一番多い苗字はやはり高久さんで37軒、二番目は柴さんで10軒、三番目は臼井さんで9軒、次が熊倉さん、横倉さんで共に8軒、続いて琴寄さん7軒、名渕さん6軒となります。
千塚町の主要苗字の分布は昭和初期も現在もほとんど変わっていない事が分かりました。
また寄附者の名前の中に「保知戸」という珍しい苗字を見つけました。この苗字は2004年度版栃木市電話番号帳を見ると市内に8軒有りますが、その内5軒が千塚町に分布をしています。
この苗字は他に多く見られた「高久」や「横倉」「琴寄」と言うかつての皆川家臣団に当たるか、寛永12年の「皆川先祖譜代家臣録」(近藤兼利著「皆川廣照伝」附録)を開いてみると、「保知戸」の苗字は確認できませんでしたが、千手村の中に「宝冶戸」と言う苗字の人物が4名おります。この姓に関係するものと推定いたします。
この千手村とは現在の千塚町の一部のかつての名前で、「千塚」と言う地名は明治8年6月に「千手村」と「犬塚村」とが合併して生まれた地名だそうです。(「吹上地区小字の由来」吹上地区まちづくり協議会編集発行)

今年は今上天皇の即位の礼が行われます。「令和御大典の年」です。令和の時代が平和で豊かな時代になることを願いたいと思います。



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