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「道の礎」に刻まれた歴史の一コマ [石碑]

東北自動車道栃木インターチェンジ出口から県道栃木粕尾線に出て左折、直ぐ東北自動車道の下を潜り抜けると、右手側道の脇に少し雑木が茂っている。
現在の様子.jpg
(通称鍋山街道を北上して、東北自動車道の下を抜けた右手側道脇に雑木が茂る)

雑木に隠れる様に一基の石碑が建っています。雑木の右側は東北自動車道の側道で、その右手奥に見えるこんもりとした小丘が、吹上町と野中町との境が山頂を通る米山。そしてこの石碑の建つ場所も野中町ながら、直ぐ北側の田んぼは吹上町と言うロケーションになります。

今から4年前の、2015年11月29日に撮影した頃は、まだ雑木も小さく石碑の姿は見えていました。
2015年11月29日撮影.jpg
(2015年11月29日撮影、東北自動車道側道脇に建つ石碑)

以前に撮影をした石碑の写真には、石碑の表面に雑木の枝が枯れた状態でこびり付いていますが、何とか碑文を読むことが出来ました。石碑上部の篆額には篆書体文字が陽刻されています。最初は何んと書いてあるのか全く分からず、調べて行くうちに右から左に「道の礎」(みちのいしずえ)と記されていることが分かりました。この篆額の文字を記した人物は、この石碑が建てられた昭和47年(1972)11月当時の栃木市長だった、柴新八郎氏です。
石碑全景.jpg篆額部.jpg
(石碑前景と石碑上部篆額部分。2015年3月11日撮影)

碑文を読み移しました、文末に昭和四十七年十一月吉日東北自動車道吹上地区地権者会と記して締めています。比較的新しい石碑で、現代仮名遣いの文章で、私にも容易に読むことが出来ます。
石碑には直ぐ脇を走る東北自動車道が計画され竣工開通するまでの間、地元地権者の対応が記されています。
≪昭和41年10月通過路線が確定発表されたが地区民の予想に反して美田の中央を縦断した為一同驚愕憤激し路線の変更を叫び猛反対運動を展開した≫と、ではその当時地元吹上地区の人達が描いたルートはどんなものだったのでしょうか。確かに岩舟小野寺地区から皆川小野口地区はそのルートの大部分が、太平連山の西側から北側の山裾を縫う様に通っています。又、都賀地区から西方地区も観音山から西方城址の有る城山の東側の山裾を走っています。それに対して皆川地区の東部から吹上地区の全ルートに関しましては、ほとんどが開けた田んぼの中を通過しています。
元々栃木市の周辺は豊かな水田が多く、その為工業団地造成も思う様に進まない土地柄でしたから、この東北自動車道路で多くの田んぼが潰れるのは、どれだけ無念な思いだったものか。その気持ちが碑文の最後に見られました。
≪思うにこの道の礎は正に父祖の培いし流汗の農地である 茲に国土開発と地域発展に寄与する為先祖伝来の土地を提供し併て地権者会の活躍を後世に伝えるためこの碑を建立する≫と。

碑文部.jpg碑文書き写し.jpg
(碑文部分を読み、そのまま書き写してみました)

東北自動車道と北関東自動車道の交差する、この栃木市に生活する一人として、東西南北のどこへでも容易にアクセスする事が可能になっています。この便利さを享受出来る幸せをもっと感謝しなければならないのかも知れません。「道の礎」と記された石碑は、そんな事を思い起こさせるものでした。
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