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「帝室技藝員畫伯草雲田崎翁墓」が建つ西方町真名子、梅樹谷(真上) [石碑]

栃木市の北域、西方町真名子に真上と称する地区が有ります。
この「真上」と言う地区は、真名子の一番西の端、赤津川の支流で都賀町大柿の中央を西から東に流れる逆川を遡っていき、都賀町大柿北西域の野上を抜けた北隣に当たります。
都賀町と西方町との境界点から、300メートル程北上すると、分岐が現れます。ここまで走って来た道路は市道1009号線、この分岐を右に曲がって行く方が市道1009号線となり、この分岐から更に直進する道路は市道2006号線となります。先月8月20日に「栃木市道1009号線、都賀町大柿中郷に建つ石碑」と題したブログにて、この市道2006号線は山に向かって登って行くと砕石工場に行き当たり、その先は工場の私有地に入って行く雰囲気で、道路が行き止まりの様に書きましたが、それに対してそのブログを読んで下さった方からコメントが有り、この道路その先も有り工場を抜けると更に林道が続き、最終的には鹿沼市立粟野中学校付近で、県道17号(鹿沼足尾線)に行き着くようで、実際にその道路を走られた写真を載せたブログを教えて頂きました。ただその様子は道路上に倒木や落石の跡などが見られ、簡単には通過できない感じです。そのブログを書いた方は自転車でその林道を踏破した様で、なかなかの冒険家と言った感じが覗われました。
話を戻します、その市道2006号線を1200メートル程進んだ道脇に一本の木製の道標が建てられています。ただ表記がかすれてしまいハッキリ読み取ることが出来ません。車を止めてよく確認すると、「田崎草雲墓地」と書かれています。
道標.jpg墓地への道.jpg
(墓地入口道路脇に建つ標柱) (墓地は逆川に架かった橋を渡った先を右へ)

車を道路の脇に寄せて止め、見学する事にします。
田崎草雲の墓地は道路脇を並行して流れている逆川に架かる小さな橋を渡った先を右手の坂道を登った所に有るようです。橋を渡った所に墓地への道案内と「草雲先生について」と題した、西方村教育委員会と西方村文化財保護委員会とが、昭和五十九年九月十九日に建てた案内板が有りました。
案内標識.jpg早雲先生の説明板.jpg
(橋を渡った前方に建てられた案内表示)   (「草雲先生について」の説明板も)

そこから坂を少し登ると前方に数基の墓石が目に入ってきます。が、その手前に道路を遮る3本の細い電線が有ります。この周辺はシカやイノシシそしてクマなどの出没で、田畑が荒らされる為、多くの田畑の周囲には電気を流した電気柵が設置されています。
ここから先に進めません、あきらめて道路まで戻った時、近くの畑で雑草を草刈り機で刈ってる人が見えたので、声を掛けて「電気柵で田崎草雲の墓まで行くことが出来ない」事を話すと、電線にフックが有るからそれを外して通ることが出来ると教えて頂けました。
確かに電線に取っ手が付いていて、そこを持ってフックを外すことが出来ました。無事に電気柵を抜けて墓地の元へ。
入口の電気柵.jpg田崎早雲墓地.jpg
(墓地への道を遮る電気柵)         (田崎草雲墓地の標柱の後ろが田崎翁の墓)

「西方村指定史跡 田崎草雲墓地」と記した標柱の奥に、「帝室技藝員畫伯草雲田崎翁墓」と大きく陰刻された墓石が有りました。  

私が「田崎草雲」の存在を知ったのは、今から45年前に遡ります。昭和49年(1974)4月に足利市を訪れ「足利学校」や「鑁阿寺」などと共に「草雲美術館」を見学した時です。
早雲美術館1.jpg早雲美術館(1974年4月).jpg
(「足利市草雲美術館」1974年4月撮影)

そしてその後、市内の書店で「画聖田崎草雲」と題する荒川敏雄著(アポロン社)を見つけ購入蔵書としました。今回改めて読み直し、田崎草雲の生涯を追いました。
そしてなぜ足利を中心に活躍した人物の墓が、この真名子の山奥に有るのか納得できました。その部分を抜粋させていただきます。
≪少年のころ父常蔵に一度連れて行かれたことのある野州真名子(現在の栃木県上都賀郡西方村真名子)の羽山家を訪ねた。草雲の祖父は羽山家から江戸の田崎家へムコ養子に入り足利藩に仕えた。つまり羽山家は草雲の宗家であった。≫この本が発行されたのは昭和47年5月20日ですが、現在「野州真名子」は栃木市西方町真名子と変わっています。
田崎草雲20歳から21歳の事でした。13歳の時に母親が亡くなり、継母との間には溝が深まって行った。17歳で花鳥画で頭角を現し、18歳の時「草雲」と改名、両刀を捨てて画道に生きる事を決意した。ついに20歳の夏敢然として脱藩し、ひとり遊歴の旅に出た。その頃のことに成ります。

墓地入口に建てられた「草雲先生について」の文中、≪先生は恩義ある真名子をこよなく愛し梅樹谷(真上)に幾度か足を運び家族と談笑し往時を追懐したり、後年足利の白石山房にて多くの門人を育成し明治31年9月1日84歳をもって永眠さる。遺言により此の地梅樹谷に分骨し墓碑を建立し之を祀る≫と、記されています。

田崎草雲翁の墓碑は祖父の出身である、羽山家の墓地の向かって右隣に建てられています。
再び荒川敏雄著「画聖田崎草雲」の「病床日誌」より、≪明治31年(1898)7月10日、真名子村の羽山謙吉氏来房、翁、川島平五郎氏ら三名で、翁の先祖の墓碑建立を相談す。碑銘は次の通り。
  聴真院釈蓮居士     文化九季壬申正月十日  田崎甚内
  能生院釈尼妙蓮大姉  文化二季亡卯六月七日  同   妻
             明治三十一年季成戌七月  田崎 芸 建之 ≫ 

田崎草雲翁墓碑.jpg先祖の墓碑.jpg
(田崎草雲翁の墓碑)              (草雲建之の先祖の墓碑)

栃木市の北域、梅樹谷(真上)にひっそりと建つ画聖田崎草雲翁とその先祖の墓碑でした。
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