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岩舟町新里の小野寺公園に建つ「轢死者供養塔」 [石碑]

岩舟町新里の小野寺公園に建つ「轢死者供養塔」の石碑については、2018年5月22日に「草むらに埋もれる石碑の残骸」と題して書いた、明治40年9月に当時の小野寺村が、明治天皇が明治32年11月16日に近衛師団機動演習にて小野寺村大字新里字天狗に御野立せられた所を記念して、「御駐蹕之碑」を建てたとする田代善吉著の「栃木縣史 皇族編系圖編」の記事を基に、現地に赴き調査した結果を記したブログですが、その中で偶然出会った石碑として少しふれています。
小野寺公園.jpg
(岩舟町新里に有る小野寺公園、今は落葉した桜の老木と草むらが広がる)
小野寺公園の碑.jpg轢死者供養塔1.jpg
(公園内に建つ「小野寺公園」の碑)      (公園中ほどに建てられた「轢死者供養塔」)

従って、地元でも無くこの石碑の事は全く知らなかった訳ですが、その時に現場に居合わせた地元の方から、この石碑についても少し話が聞けました。
この小野寺公園の南側に沿って、両毛線の線路が有り、その為その線路を渡る際に列車に撥ねられて亡くなった人が後を絶たなかったと言います。そうした犠牲者を供養する為に、建てられたものだと云います。
小野寺公園横の両毛線.jpg
(小野寺公園のすぐ横を走るJR両毛線の電車)
小野寺公園周辺概略地図(昭和39年頃).jpg
(「轢死者供養塔」の建つ「小野寺公園」の周辺の様子を概略図にしました)
上の概略地図は国土地理院が昭和39年に発行した「下野藤岡」の2万5千分の1の地形図を基に作成しました。その為地図中央の「小野寺公園」の直ぐ右下、現在の「新里踏切」の西側に駅の地図記号が見られます。この駅は昭和27年4月5日に開業した小野寺駅に成ります。
この小野寺駅は昭和41年12月20日駅の業務を休止しています。その後昭和43年7月19日の佐野・岩舟間の複線化工事、同9月1日の両毛線全線電化等が行われ、昭和62年4月1日の国鉄民営化に合わせ、再開することなく、小野寺駅は廃止と成っています。
右上から中央下に向かって描いた道路は、「下都賀西部広域農道」で昭和39年当時は有りませんでしたが、現在の位置関係を理解する目標物として、追加記載しました。

それでは、この石碑は何時頃建てられたものか、碑陰を確認します。
碑陰には全体に文字が刻されていますが、長年風雨に曝された為に文字の判読が困難な所が多く、何とか碑陰の左端の行に有る日付けを読み取りました。
「昭和2年7月」です。その下には「發起人 小野寺村各宗寺院一同」と読み取りました。

明治21年(1888)5月22日の両毛線開通式後39年間、どれだけの人が亡くなられたのか、分りませんが、この供養塔を建碑する為に、浄財を寄せられた多くの芳名が碑陰一杯に刻されています。
判読できた中に「金拾円也」や「金貮円也」「金参円也」「金壱円也」の金額、「小松原儀一」「大嶋登一郎」「寺内作蔵」「大島善次」「熊倉喜一郎」などの名前が読み取れました。

「轢死者供養塔」の文字を書かれた人物の名前は、碑の正面左下に確認出来ました。「物外書」と有りますから、恐らく発起人に有る村内寺院のどちらかの僧侶の手によるものと思われます。

何故、この地で轢死する人が多かったのか、それは先の概略図を見ると地形上の原因が大きかったことが覗われる。この小野寺公園の所で両毛線の線路が、三毳山の北の端に張り出した小丘を回り込むように、僅かにカーブしているのです。この地点から東(岩舟駅)方向を見ても、西(佐野駅)方向を見ても、ほぼ直線上に進んでいます。
東方向を望む.jpg西方向.jpg
(東方向、新里踏切の先は真っ直ぐ伸びている)(西方向、ずっと先まで真っ直ぐ伸びている)
小野寺公園横両毛線遠望1.jpg
(広域農道の跨線橋上から、右手奥木立の中の小野寺公園を望む)
小野寺公園横両毛線遠望.jpg
(上の写真の奥、新里踏切付近を拡大。線路がカーブしているのが、良く分かります)

現在この区間は複線に成っていますが、昭和40年頃までは単線だったから、カーブはもっと見通しが利かず、山陰に隠れた踏切はもっと危険だったと思われます。
ここで云う踏切は現在の新里踏切の場所では無く、小野寺公園の西側に以前通っていた小路の踏切と考えます。(現在踏切も道も有りません)

今も「轢死者供養塔」は公園の緑の木々の中で、静かに前方を行き交う両毛線の電車を見守っています。

※参考資料
・「栃木県鉄道史話」大町雅美著
・「栃木縣史 交通編」田代善吉著
・「栃木縣史 皇族編系圖編」田代善吉著
・「2万5千分の1地形図・下野藤岡」昭和39年11月30日国土地理院発行


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コメント 1

ロックシップ

こんばんは。
たびたび興味深く拝見させていただいております。
この轢死者供養塔は自分も謎に思っており、JR東日本や幾人か歴史に通じている方にもお話を伺っておりましたが、記録がなく、建立の経緯や主となる発起人が明記されておらず、不明のままでした。
(お話しいただいた実例でも、昭和20年代に児童が3、4人死傷する大事故が目の前で起きたとの事でしたが、この塔は建立が古すぎるため、また別の大きな事故であろうと思っておりました)

お察しの通り、明治21年の開通以来、昭和2年に至るまで幾人もの死傷者が出たであろうことは地形的にも想像に難くありません。
おっしゃる通り、幾人もの死傷者が出ていることを痛ましく感じた地元の有志による供養塔であろうという御推察が正しいのではないでしょうか。
御示唆をいただきましてありがたく思っております。
by ロックシップ (2019-11-20 23:03) 

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