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岩舟町に建つ二つの「土器開祖」の石碑 [石碑]

栃木市岩舟町には、何故か2ヶ所に「土器開祖」と刻した石碑が建てられています。
ひとつは、大字静字茂呂の市道1054号線、「すみれ保育園」の少し北側の道路の脇に、建てられています。石碑には「土器開祖 新井藤吉翁之碑」と有ります。
新井藤吉翁之碑1.jpg
(市道1054号線の道路脇に建つ、「土器開祖 新井藤吉翁之碑」)

そしてもう一つは、大字曲ケ島字新区、市道1064号線の道路脇、新区公民館前に建てられています。石碑には「土器開祖 新樂平五郎之碑」と有ります。
新樂平五郎之碑1.jpg
(市道1064号線の道路脇に建つ右側が、「土器開祖 新樂平五郎之碑」)

それでは何故、岩舟町に「土器開祖」が二人いるのか。その答えは、岩舟町史を開くと直ぐに解決しました。答えとなる部分、岩舟町史の第四節窯業の部分より、抜粋させて貰います。
≪窯業の歴史は、茂呂と曲ヶ島の二つの流れがある。茂呂における歴史には、新井藤吉と、その子孫たちの苦闘の歴史が、曲ヶ島やきは新樂平五郎を元祖と仰ぐ佐山清之丞の苦心が秘められている。≫
以上の様に元々岩舟町の窯業の発展には、茂呂地区と曲ヶ島地区の二つの流れ(歴史)が有った為、それぞれに開祖となる人物が存在していたので、両方の地区でそれぞれ石碑を建立された訳です。

それでは最初に茂呂地区の、新井藤吉翁之碑について見ていきます。
新井藤吉翁之碑(碑表).jpg新井藤吉翁之碑(碑陰).jpg
(碑表には大きく碑銘のみ)(碑陰には碑文と下部には発起人や世話人の名前が並びます)

碑陰に刻された碑文には、碑銘に有る新井藤吉翁の生れは、時代を遡る事江戸時代、寛政3年2月15日と成っています。それから茂呂の此の地で、土器生産を完成させた経緯が記されています。
それは、藤吉翁一人の苦労に留まらず子孫代々の改良が加えられて、完成されたものでその間時代の流れに翻弄されつつも、事業を拡大した様子が覗えます。
石碑が建てられたのは昭和19年9月20日、碑文を撰文したのはその当時岩舟村長の石川光士氏です。

曲ヶ島の新区公民館の前に建つ、新樂平五郎之碑について見ていきます。
新樂平五郎之碑(碑表).jpg新樂平五郎之碑(碑陰).jpg
(碑表、中央に碑銘、右側に開業五十年祭と有る)(碑陰には発起者と賛成者の名前)

こちらの石碑が建てられたのは、先の茂呂地区の石碑より早く、昭和2年4月と成っています。
碑銘に有る「新樂平五郎」という人物に関しては、碑陰に「祖師東京今戸生新樂平五郎」とのみ有るだけ、ハッキリしません。ここは「岩舟町史」に助けて貰います。
≪曲ヶ島の土器製造は、明治維新ののち、東京の今戸焼の職人新樂平五郎が曲ヶ島へ移住、曲ヶ島向坪の土をもって火鉢やほうろくなどの日用土器を焼いたにはじまる。佐山丈右衛門の四男清之丞は、これに興味をおぼえ、平五郎の弟子となり、向坪にかまをつくって日用土器の生産を開始した。新樂平五郎というよき指導者にめぐまれたことが幸いした。明治十年(1877)佐山倉吉の長女トキと結婚、本家から独立してやきものだけで生活が出来るようになった。これが刺戟となって近隣のものも清之丞から技術を学び、土器生産をはじめるものがあらわれその数も六軒におよんだ。≫と説明されています。

この石碑が建てられた昭和2年4月と言うのは、佐山清之丞が結婚をし独立をした、明治10年から丁度50年が成った時で、碑の表に有る通り「開業50年祭」を記念する建碑だったのです。
二つの碑の背面の内容を書き写しました。
新井藤吉翁之碑(碑文書き写し).jpg新樂平五郎之碑(碑陰書き写し).jpg
(新井藤吉翁之碑の碑陰)                 (新樂平五郎之碑の碑陰)

今、栃木市街地から県道11号(栃木藤岡線)を南下して、国道50号(岩舟小山バイパス)の跨線橋を抜けて、岩舟町曲ヶ島の新区地区を通過する時、道路の両側に大量の茶褐色した土管が積まれた風景を見る事が出来ます。土管を焼くための窯の煙突でしょうか。煙突には(有)葛生陶管の社名が見えます。
曲ヶ島新区の土管.jpg葛生陶管の煙突.jpg
(県道栃木藤岡線脇に大量の土管が積まれています) (2本の煙突が見えます)

ここ(有)葛生陶管さんの関係者でしょうか、「土器開祖 新樂平五郎之碑」の発起人の一人に「葛生信次」氏の名前が並んでいます。他に石碑の建つ新区公民館周辺には「佐山陶管有限会社」の看板を付けた家屋も見られました。

一方茂呂地区周辺を巡ってみても、土管を製造していそうな風景は見られませんでした。ただ古い岩舟町の住宅地図を確認すると、茂呂新田周辺に「栃木製陶」とか「青木陶管工業」「富山陶管工場」の会社名が確認出来ました。ただ現在の住宅地図には、これらの会社名は掲載されていません。
茂呂地区に残る煙突.jpg
(茂呂新田地区に残るかつての「富山陶管工場」跡と思われる煙突)

小さな二つの石碑に、かつて岩舟町の一大産業だった、窯業の歴史を知る事が出来ました。


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