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今年、最初に巡る石碑は「夢の実現」です [石碑]

2020年の始まりは、例年通りに元日の神明宮への初詣。毎年ほぼ同じ時間に行くと、ほぼ同じような参拝者の行列。神前で「今年一年健康で有りますよう」祈願してきました。
二日・三日はテレビ桟敷で箱根駅伝を見て過ごしました。そしてあっという間にいつもの生活に戻ってしまいましたが、炬燵からなかなか抜け出る事が出来ず、ブログの更新も出来ずに、今日まで来ました。
今日、いくらか暖かくなったので、パソコンの前に座った次第です。

今年最初のテーマは、前々から調べていた、「夢の実現」と碑の前面に大きく刻された石碑を巡ります。
この石碑が建っているのは、栃木市藤岡町甲の本郷東、市道1073号線の道路の脇に成ります。
石碑「夢の実現」.jpg
(栃木市藤岡町甲の本郷東に建つ「夢の実現」の石碑)

私がこの石碑を初めて確認したのは、2014年11月20日、渡良瀬川の支流のひとつ蓮花川を、渡良瀬川との合流点から遡る形で、川岸を歩いていた時です。

蓮花川と上記の市道1073号線とが交差する点に架かる「十三橋」の上から北西方向に向かう道路が、坂を登った先に、何やら胸像と共に建つ石碑を、手持ちのカメラで目一杯ズームアップして確認したものです。
蓮花川銘板.jpg十三橋銘板.jpg
(市道1073号線の蓮花川に架かる「十三橋」の銘板)

石碑の表面には、中央に大きく「夢の実現」も文字が彫られています。右側上部には「農業構造改善竣工紀念」、そして左側下部に「理事長関塚茂七書」の文字。
碑陰を見ると、上側半分に碑文、下半分には関係者の名前が並んで彫られています。
石碑の正面.jpg石碑の碑文.jpg
(石碑表面)              (碑陰上半分に彫られた碑文)

今、この石碑の建つ高台から南東の方角を望むと、水田地帯が広がっています。更にその先を見ると道路は坂を登っています。地形図を見ると石碑の建つこの場所は標高20メートルの等高線が通っています。そしてこちら側藤岡町甲の本郷東周辺は、標高25メートルの高台に成っています。又、蓮花川を渡った反対側の高台となる藤岡町大前の国造西周辺の標高も25メートル程に成ってます。その間の低地に水田が広がりその中央部分を、蓮花川が北から南に大きく蛇行して流れています。川の流れる水田地帯はかつては唯木谷津と称される低湿地帯で、現在でも標高16メートルと成っています。
唯木谷津.jpg
(石碑の前から南東方向を写す。中央の水田地帯を左から右に蓮花川が流れる)

「藤岡町史資料編近現代」第Ⅱ部「石に刻まれた歴史」には、この石碑に関する解説が有ります。
≪町道大前・新井線の只木谷津に臨む路傍に建つ「農業改善竣工記念碑」(1971年)である。「夢の実現」と刻まれているように、長年蓮華川の洪水に悩まされた只木谷津約百町歩の干拓事業は、この周辺の農家の夢であった。昭和22年のカスリン台風によって農耕が不可能になった後、同23年度の県営排水事業による新堀排水機場の整備の開始から、同46年の換地登記に至るまでの経緯を記し、「永年の夢の実現を喜び盛大なる完工式を挙行」してこの記念碑を建立したと結んでいる≫と、記しています。

石碑の前に建てられた胸像は、石碑の題字「夢の実現」を揮毫された当時の第一土地改良区の理事長「関塚茂七」氏で、眼下に広がった唯木谷津の水田地帯を見守っています。
胸像を据えた台座の裏面には、「関塚茂七翁を讃う」として、翁の略歴と功績とが刻まれています。
関塚茂七胸像.jpg胸像碑文.jpg
(関塚茂七翁之像)              (台座裏面「関塚茂七翁を讃う」の碑文)

胸像の背中部分には、「関塚茂七翁像 昭和三十二年丁十月 佐伯留守夫」と刻まれています。
又、台座の下部には発起人や建設委員等、34名の氏名が並んでいます。
台座下部2.jpg台座下部1.jpg
(胸像台座下部左側部分)                (胸像台座下部右側部分)

又、「関塚茂七翁之像」に向かって、右後ろにもう一基小さな石碑が建てられています。この石碑がどうも私には理解出来ない、多くの疑問が有るのです。
まづ石碑の表面には、「関塚茂七翁胸像 移転竣工記念 平成七年五月吉日」と有り、その下側に関係者の役職名と名前23名が並んで刻まれています。
山合新堀水閘1.jpg
(「関塚茂七翁之像」の右後方に建つ、少し小さな石碑表面)
これだけを見る限りでは、隣の胸像は元は別の場所に建てられていたものを、この地に移転竣工したのを記念して建てられた石碑と単純に解釈出来ます。
が、その石碑の後ろ面を見ると、その裏面には上側に「山合新堀水閘」と、そして下側には「明治三十六年十月建設 設計者 栃木縣技師工學士井上次郎 監督者 栃木縣土木工■ 伊藤千城 功七等 栗林長策」
と刻まれています。 (■部分の文字は判読出来ませんでした)
山合新堀水閘2.jpg山合新堀水閘3.jpg
(碑陰上部:山合新堀水閘)           (碑陰下部:建設年月・設計者・監督者)

使用されている漢字を見ると「栃木縣」とか「工學士」「功七等」と、平成に成って刻まれた文字とは考えにくい、「明治三十六年十月建設」と彫られた日付けから考えて、元々有った石碑を利用したものと考えたい。

碑陰上部に刻まれた「山合新堀水閘」とは何なのだろうか。関塚清蔵著「蓮花川」(昭和58年4月6日・全国農村教育協会発行)の中で、≪明治時代になると高取堤の決壊は無くなり、この部分から唯木沼に入る洪水の被害は無くなった。しかし今度は、渡良瀬川の洪水時には、赤麻沼から新堀を逆流して、唯木沼周辺の耕地が冠水する被害が出てきた。とくに明治二三年(1890)以降は、渡良瀬川の洪水時には、足尾銅山の鉱毒を含んだ水が入りこんで被害を大きくした。そこで山合の関塚清作、関塚千代作等が発起人となり、蓮花川の逆流を防ぐ目的で、明治三六年一〇月に山合新堀水閘を完成させた。≫と記しています。
そして又、水閘の有った位置については、≪この県道は最近まで、明治36年に作られた山合新堀水閘の上をとおっていて、水閘の横には旧排水機場があった。昭和56年に蓮花川の河川改良工事により、水閘も排水機場も撤去され、新しい新堀橋が完成した。この橋の南側の県道傍に関塚茂七氏の胸像が建っている。≫とも、記されていました。ここで言う県道とは現在の市道1070号線(旧県道栃木藤岡線)の事です。
この書籍「蓮花川」が発行された頃は、「関塚茂七翁之像」は現在の場所では無く、こちらの「新堀橋」の南橋詰に建てられていたものを、平成7年5月に移転した事など、全ての疑問が解消されました。
平成5年頃新堀橋.jpg
(かつて「山合新堀水閘」が有った、蓮花川に架かる市道1070号線の新堀橋。)

※参考にした文献:
  ① 「藤岡町史 資料編 近現代」 藤岡町史編さん委員会 藤岡町発行
  ② 「蓮花川 郷土の歴史と農業の発達」 関塚清蔵著 全国農村教育協会発行


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