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都賀町富張の三宮神社鳥居脇に建つ石碑「電燈紀念碑」 [石碑]

栃木市都賀町の住宅地図を眺めていたところ、富張を流れる赤津川左岸の小丘南端に鎮座する三宮神社境内に、記念碑の地図記号が4つ有るのに気付きました。これは是非行って確認しなければと思い、早速行ってきました。
神社の東側に整備された駐車場が有り、その北端に新しく建てられた石碑が有りました。
確認すると「戦後六十七年富張移り変わりの記録」と題し、1945年(昭和20年)から2011年(平成23年)の間、日本国内で、そして都賀町富張で起こった事柄が、年表状に刻されています。そして最後に「この地に、富張の全てを想う人々の熱意が結集し、関係者の理解と協力の下、記念碑を建立する。」と結んであります。碑陰には、「平成25年11月」の日付けと、記念碑建立 富張寄付賛同者36名の氏名が刻されています。
戦後の移り変わりの碑.jpg
(駐車場に建てられた「戦後六十七年富張移り変わりの記録」と題した石碑)

駐車場に車を止め、参道に向かいます。
三宮神社正面入口.jpg
(三宮神社参道入口)

まず、参道石段登り口の右横に「軍馬紀念碑」と大きく力強い文字で刻された石碑が、碑の光を浴びてドッシリとした感じで建っています。碑表に見られる文字は他に、左端に小さく「栃木石工 山澤常正刻」と有るのみです。
石段の上に「三宮神社」の神額を掲げた石の鳥居が、新年を迎えて新しい注連縄を付けています。
その鳥居の左側にもう一つ石碑が建てられています。碑表に「電燈紀念碑」のこれまた達筆な文字が刻されています。左横に「皆川月堂書」と有ります。石碑の題字を揮毫した人物ですが、特定できませんでした。
軍馬紀念碑.jpg電燈紀念碑全体.jpg
(参道登り口右側、軍馬紀念碑)       (石段の上石の鳥居の左側、電燈紀念碑)

鳥居を潜ってその先の石段を登って行くと、広々とした境内の先に三宮神社の社殿。
石の鳥居.jpg三宮神社社殿.jpg
(新しい注連縄が取り付けられた鳥居)   (杉木立をバックに建つ社殿)

社殿に向かって右手前、境内の隅にもう1基石碑が見えます。近くに寄って確認します。
「都賀町富張鎮座 三宮神社由来」と題し、碑文が刻されています。文末に「平成十七年三月吉日 下野歴史研究会長 熊倉精一」と有りました。熊倉精一さんが著わした文献が何冊か、栃木市の図書館にも収められています。私も今まで何回か拝読しています。
碑文の内容が写真では分かりにくい為、書き写してみました。
三宮神社由来の碑.jpg三宮神社由来の碑(碑文).jpg
(三宮神社由来を刻んだ石碑)              (碑文を書き写しました)

拝殿にて参拝をして更に境内を探索。社殿右側にいくつかの石碑が並んでられられています。確認するとこれらの石碑は明治後期から昭和初期に、百円・二百円と言う高額奉納者に対して、氏子一同が記念して建てたものでした。
高額奉納記念碑.jpg
(高額奉納者に対して氏子一同が謝意を表した記念碑郡)

これらの石碑の中、私が興味を持ったのは、参道石の鳥居脇に建てられた「電燈紀念碑」です。この種の記念碑は栃木市内で以前一度お目に架かっただけです。(外にも有るのかも知れませんが)
それは、大平町富田南西端にあたる、西友田の浅間神社参道入口に建てられた、碑表に「電燈建設記念碑」と刻まれた石碑です。
碑陰には「昭和四年六月八日點火」の文字の外は、関係者の氏名が並んでいます。
電燈建設記念碑(富田).jpg電燈建設記念碑(碑陰).jpg
(大平町富田西友田、浅間神社入口の石碑) (碑陰上端部分に刻まれた点灯の日付け)

碑陰最下段に刻まれた発起人の一人「熊倉吉太郎」と言う人物は、石碑の題字「電燈建設記念碑」の文字を
揮毫していますが、その後、昭和9年(1934)8月1日から、第11代富山村長に成られた人物です。

ただ、この石碑に関してそれ以上の情報が得られなかったので、今回三宮神社参道に建つ「電燈紀念碑」を目にしたときは、ここにも電燈の記念碑が有った事に興味が沸いたのでした。

改めて「電燈紀念碑」の碑陰を確認すると次のように、碑文が刻まれていました。
碑陰上部.jpg碑陰下部.jpg
(碑陰上部、大正十四年十二月の日付け) (碑陰下部、建設委員などの氏名が並ぶ)

碑文を書き写してみました。
碑文.jpg
(実際の文体は写真の通り、漢字とカタカナです。簡体字も使われています)

碑文に有る様に、この石碑は大正14年(1925)12月1日に建立されていますが、これは前年同日に当時赤津村大字富張の地に、初めて電燈が灯った日の、一周年を記念して、電燈の建設に携わった富張1・2区の正副委員長が発起人となり委員の同意を得て、その経緯を石に刻して紀念としたものでした。

現在は当たり前の様に私達の生活の中に溶け込んでいる「電灯」。今の生活は電気無では成り立ちません。平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災の後、私達は長期間の計画停電を強いられました。3月中旬のまだ朝夕の寒い時期に、暖房機が使えなくなったり、多くの製造現場では機械を動かせず、勤務体制の見直し等に翻弄されました。

今回確認した「電燈」の灯った日を記念して建てられた二つの石碑。大正期から昭和初期ににかけて、栃木市の各地域で同様の動きが起きていたことが、そして多くの人々は電燈が灯った事の喜びが伝わってきます。

もう少し栃木市各地区の電燈の普及状況を見ていきたいと思います。
旧栃木市が発行した栃木市史の内、最初に発行された「目で見る栃木市史」(昭和53年3月31日栃木市発行)を開くと、≪栃木町発展のあゆみ、明治期のまちのようす≫の項に、「大通りみ街燈ともる」と題して
≪明治六年(1873)大通りに三六基の街燈を設置、(中略) それにともなって軒先にガス燈をつける商家も目立ってきた。≫と、記しています。
街灯に浮かび上がる横山郷土館.jpg横山郷土館の旧ガス灯.jpg
(外灯の光で浮かび上がる横山郷土館)(軒先に点灯する外灯は、かつてはガス燈と云う)

この時の街燈の燃料はなんだったのだろうか。昭和27年に発行された「栃木郷土史」(栃木郷土史編さん委員会編)の中にヒントが有った。≪それはカーバイトの器具機材を各自が購入したものであった。≫と。私が学んだ栃木工業高校時代、アセチレンガス溶接作業の実習が有り、機械科実習棟の北側にはアセチレンガス発生装置が有った。カーバイトに水を滴下すると反応してアセチレンガスを発生させる。そのアセチレンガスと酸素を吹管で適宜混合して火口から噴き出す高温の燃焼炎により金属を溶融結合または切断させる。のですが、取り扱いを誤ると逆火して爆発すると言われ、あまり好きな実習では有りませんでした。当時のガス燈はカーバイトからアセチレンガスを発生させ、燃焼させて明かりを得たものだったのでしょう。

上記「目で見る栃木市史」には更に「ガス燈から電灯へ」と題した項が有ります。
≪栃木にガス燈があらわれたのは、日露戦争中自家用として町民の一部に使用されたにはじまるが、その大衆化は明治三十九年(1906)の初夏、ガス会社が設立されてからである。(中略) やがて明治四十四年(1911)下野電力が進出し、電灯がともるようになったのでガス会社は解散した。≫と記しています。
そのページの上部に、「電線路略図(明治43年)」の図面が掲載されていますが、その図に有る会社名は「栃木電氣株式会社」と成っています。

日本で初めての電力会社は現在の「東京電力(株)」の前身で、「東京電燈」で、明治19年(1886)の開業に始まります。栃木県内では、明治26年(1893)10月1日に「日光電力」が、明治35年(1902)1月15日に、「宇都宮電灯」が開業、その後明治40年(1907)9月、これらの2社が合併して、「下野電力」と改称しています。この宇都宮市に本社を置く「下野電力」は、明治41年(1908)栃木町まで架線を設置して供給する計画を立てた。一方栃木町には「利根発電(株)」に直結する「栃木電燈(株)」が望月磯平らによって開設されていた。栃木町では2社が競合する形に成っていた。その利害関係などによる内部事情から確執を起こしたが、「下野電力(株)」が同会社を買収する事によって、栃木町にも送電されるようになりました。明治44年5月のことに成ります。尚、寺尾村は遅れて大正14年(1925)のことに成ります。

大平町はどうだったのか、「大平町誌」には電灯に関する記載は見つけられません。先に紹介した「富山村」の「電燈建設記念碑」の碑陰に刻まれた日付け、「昭和4年6月8日点火」が、確認されます。該当地域は碑陰の関係者の名前欄から、富山村と古橋北坪が確認出来ます。

藤岡町については、「藤岡町史 通史編 後編」に「電気が入る」と言う題が見つかりました。大正6年(1917)≪藤岡町長、「藤岡電気(株)」に電柱設置の為、道路使用許可する命令書を下付している。≫と。又、≪藤岡町の加藤伝蔵と茨城県古河町の「古河電気(株)」との間で「電線路電柱」建設の為の敷地使用に関する契約が取り交わされている。≫などと、記されています。そして電灯が入った時期については、≪大正4年に部屋村大字緑川、5年に藤岡町、6年に部屋村大字新波、赤麻村の西赤麻、7年に部屋村大字部屋・石川・蛭沼、11年に岩舟村からの電線で三鴨村大字太田、11、2年に赤麻村残り全域、12年に三鴨村残り全域≫と記されていました。

都賀町では、「都賀町史 歴史編」に電灯と言う項が有り、富張地区の「電燈紀念碑」碑文の記載が有った。≪富張の三宮神社鳥居の傍らに「電灯記念碑」が在る。帝国電灯株式会社と契約して、大正十三年六月に該地区に電灯が点ったのである。点灯の記念であるが、「電灯記念」としたのも当時の人達が電灯への憧れの強さを示すものであろう。(後略)≫と、記されています。この時の契約相手の「帝国電灯(株)」とは、大正10年(1921)7月16日に先の「下野電灯(株)」を吸収していました。又、点灯した日付けは大正13年12月1日であり、6月は契約を行った時期の誤りです。
更に都賀町史には、≪本町に点灯されたのは大正七年と要覧にあるが、これは、おそらく家中宿坪地区であろう。その後、大正十三、四年ごろになって大柿地区までに及んだものと思うが現在記録が見当たらない。≫と記されています。

「西方町史」には、≪大正6年(1917)西方村内で初めて金崎に電灯がつく。≫と、又、「岩舟町史」には、≪大正5年(1916)電灯が普及する。≫

この様に栃木市内のほとんどの地域が、大正年間に電灯が点っている。ただ、「電燈建設記念碑」の建つ富山村が昭和4年の点灯と有り、予想外に遅れている理由が思い浮かばない。

参考文献:目で見る栃木市史、大平町誌、藤岡町史、都賀町史、西方町史、岩舟町史、
       東京電力三十年史、栃木郷土史、





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