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都賀町原宿の、磐根神社入口脇に建つ「大正湧泉記念之碑」 [石碑]

栃木市都賀町原宿に鎮座する「磐根神社」の参道入口に建つ、石の鳥居の左脇に幾つかの石仏や石碑が並んでいます。その中に後方で他より背の高い石碑が目に留まりました。
磐根神社(原宿).jpg
(磐根神社の入口に並ぶ石造群)

石碑上部の篆額部分には、「大正湧泉記念之碑」と篆書体の文字で浮き彫りされています。
揮毫した人物は「正三位勲四等子爵戸田忠友篆額之書」と、碑文冒頭に刻まれています。
「戸田忠友」は、下野宇都宮藩の最後の藩主。明治の版籍奉還で宇都宮藩知事となったが、明治4年(1871)の廃藩置県で藩知事を免職に成っています。明治17年(1884)の華族令で子爵に成っています。大正元年(1912)に正三位に昇叙されています。(最終的には、従二位)
大正湧泉記念之碑.jpg大正湧泉記念之碑(碑文).jpg
(大正湧泉記念之碑)                (碑文書き写し、原文は漢字・カタカナ文)

碑文には、≪古来より原宿の地は水利に乏しく、唯一の水源として頼むのは、西方用水の残流荒川だけで、近年上流にて水田が著しく増加した為、夏季には往々流れが断絶。農民の困苦は年をおいて甚だしく、加えて大正3年初夏には雹害旱災が相次ぎ、畑作物は壊滅に帰し、水田の収穫も又危ういものになった。
ここにおいて有志等会合を以て、湧泉開鑿を行うことを決めて、あちこち場所を探索し、ついに現在の泉地を選定する。直ちに敷地を購入し、7月15日起工、経費5,037円、夫役4,980人を投じて、大正6年10月1日竣工、既成改田17町8段5畝歩を得る。組合員一同終始和合協力して、僅かな失敗も無く、湧水も予想以上に豊富であった。この成功は神明の加護によるものである。事業の終了に際して、関係者一同相謀って、その由来を碑に記し、後世子孫に伝える。≫との内容が記されています。

ここで言う「大正湧泉」はどこに有ったのだろうか。まずは都賀町原宿の場所を再確認してみたい。
「都賀町原宿」周辺の概略図を作ってみました。
都賀町原宿周辺地名概略図.jpg
(栃木市都賀町原宿周辺概略図)

原宿の北側には西方町本郷、東側には都賀町家中、西側は都賀町木、南は木野地町等に隣接し、中央を北関東自動車道が横断、又、県道177号(上久我栃木線)が縦断しています。
西側の都賀町木との境には、思川の小倉堰から取水した西方用水の一つ「荒川」が流れています。

更に詳しく石碑が建つ原宿の「磐根神社」周辺を確認する為、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「下野大柿」を基に、概略図を作ってみました。
都賀町原宿上付近概略図.jpg
(原宿の旧村社「磐根神社」周辺概略図)

「下野大柿」の2万5千分の1地形図の発行は意外と遅く、最初に発行されたのが、昭和46年12月28日です。そこには荒川の河道は描かれていません。地図記号で描かれていたものは①都賀町立木村小学校の「文」記号、(昭和55年3月31日、統合により廃校)。②磐根神社の鳥居記号、③玉塔院の「卍」記号、そして④記念碑記号です。(現在神社前に有る石碑とは場所が異なっています。)

昭和52年9月30日発行の地形図を見ると、県道栃木粟野線沿いに煙突の地図記号が追記されています。
三和酒造(株)の煙突です。創業は明治中期ですが、すでに廃業されています。製造していた銘柄は創業以来の「多喜水」、他に「大平冠」も造られ、合わせて二種と聞きました。

平成元年6月1日発行の地形図を見ると、荒川の河道が新たに描かれています。上記の概略図中央を左右に蛇行して左下に向かう線が荒川に成ります。これを見ると以前の荒川は現在石碑の建つ「磐根神社」の直ぐ西側を流れています。又、木村小学校の地図記号が消えています。

平成15年1月1日発行の地形図を見ると、北関東自動車道が現れました。その結果、概略図右上に有った記念碑記号が自動車道のルートに当たり、無くなっています。又、蛇行していた荒川の河道も直線的に改修されました。

平成30年8月1日発行の最新の地形図を見ると、北関東自動車道周辺の田畑や道路が直線的に改修されています。上記概略図には破線で表示しています。これは北関東自動車道整備に併せて、周辺の区画整理及び灌漑排水、農道整備を進めた結果になります。(県営土地改良総合整備事業、赤津南部地区)

「大正湧泉記念之碑」の碑陰を見ると、≪北関東横断道路の建設に伴い 大字原宿愛宕北127-3に建設されて居りました記念碑を神社境内に移転します。 平成8年1月吉日≫のプレートが埋め込まれていました。

やはりこの記念碑は、かつての地形図に記されていた場所に建っていたことが、確認されましたが、その「大正湧泉」の場所が何所なのかは、区画整理が行われた後では確認は難しいのかもしれない。
都賀町史を開くと、「水利について」と題する項目が有ります。その一部を抜粋します。
≪当町は小倉川(思川)に北から東にかけて包まれるような形になり、また西の方には西方村真名子の方から流れ出してくる赤津川が流れており、二大水源となっている。地質的には、赤津川から東が沖積層であり、西が洪積層であるというが、西の方が山からの湧水などを集める小さな河川もあり、比較的水利に恵まれていた。しかし、沖積地の方は扇状地であり水利に恵まれず、小倉川からの用水を利用した。西方村から赤津地区を流れる小倉用水と、家中地区を流れる桑原用水がある。家中では、桑原用水が出来るまでは水田は少なく、竹筒に入れた米の音を聞かせると死人が生き返るとか病気がなおってしまうと言われたとつたえられているほどである。 しかし、、田植えの頃など、水を一斉に使うので特に下流の方は水不足の問題があった。そこで、地下水を掘り出す湧泉(ユウセン)があちことに作られた。≫として、「明治湧泉」「川久保湧泉(金剛湧泉)」「万延湧泉」「文久湧泉」等々の湧泉名が列記されています。そして≪これら以外にも、西方村地内から、大正湧泉、雷神湧泉がひかれ・・・・(後略)≫と、ここに「大正湧泉」の名前が出てきました。

「大正湧泉」は北隣の西方地内に有って、そこから原宿まで水路を開鑿して、灌漑用水を確保したもので、磐根神社入口に建つ石碑は、そんな地域の歴史を静かに伝えているものでした。

※参考資料:
  ・国土地理院発行、2万5千分の1地形図「下野大柿」
  ・都賀町史:都賀町発行



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