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西方町元に建つ「中宿湧泉完工記念」の碑 [石碑]

栃木市西方総合支所ふれあいプラザの駐車場南西隅に建つ石碑について、調べてみました。
中宿湧泉完工記念碑1.jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑、後方は栃木市社会福祉協議会西方支所)

石碑上部には、「中宿湧泉完工記念 理事長上田善市書」と刻まれています。この題字を揮毫した「上田善市」氏は、第11代の西方村村長に成ります。
中宿湧泉完工記念碑(碑表).jpg中宿湧泉完工記念碑(碑陰).jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑表)       (「中宿湧泉完工記念」の碑陰)  
 中宿湧泉完工記念碑(碑文).jpg中宿湧泉完工記念碑(碑題).jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑文書き写し)     (碑上部の題字部分)

石碑を撮影に行ったときは、丁度石碑に電柱の陰が掛かっていました。石碑隣の現在栃木市社会福祉協議会の西方支所の場所は、昔は保育園だったのか、今も多くの子供たちが敷地内の遊具で遊んでいました。
近くでカメラを持ってうろうろしていると不審者と思われては困るので早々に退散して来ました。
後日、子供たちのいなそうな午前中に出かけましたが、今度は碑の表側は逆行で陰に成ってしまい文字が読めない状態でした。碑陰側の文字はハッキリと確認出来ました。
撮影してきた写真を基に碑文を読み、書き写してみました。

西方町史を見てみると、「中宿湧泉と水田の拡がり」と題した一文が有りました。一部抜粋してみます。
≪小倉堰からの取水によって大きな三本の分流を有する西方村でも、その水の枝川が行き届かない所には水の苦労があった。小倉堰から取水できる水量は水利権とからんで制限されているので、特に下流(南部地区)においては不足分の水の補充には井戸からの汲み上げや、湧泉の拡大が必要であった。・・(中略)・・大字本城の中宿・大字元の峰地内から富張(栃木市)に至る地域の水不足を補うために、昭和20年に、集中暗渠による中宿湧泉の計画が矢部藤七村長によって進められたのも、このような背景があったのだろう。この工事は、早くも22年6月には完成して人々に喜ばれたが、使用材料が木材中心であったため、日ならずして所々に陥没が生じる欠点も表面化し、25年からコンクリート工法による復旧工事を必要とする問題も出た。そのため、次の大森昇、上田善市を含めて三代の村長の関わる工事となり、31年まで工事が続いた。この湧泉の完成により、大字本城南部と大字元の西部地区は良質米の穫れる美田地帯となった。戦後間もない頃の食糧不足を補うために、地元農家にとってこの湧泉はありがたいものであった。(後略)≫

碑文冒頭に出てくる、昭和20年2月当時西方村長職に在り、小倉堰普通水利組合管理者であり、中宿湧泉を計画起工された「矢部藤七」氏については、「栃木市西方公民館」の玄関前方のロータリーの中央に胸像が建てられています。

西方総合支所前.jpg
(栃木市西方公民館前に建てられた「矢部藤七翁像」)

矢部藤七翁の胸像が乗る台座の背面に据えられた碑文に、翁の略歴や功績について記されています。
碑文を書き写しました。
台座背面の碑文.jpg
(矢部藤七翁像台座背面の碑文書き写し)

※参考資料:西方町史(発行西方町)
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