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太平山謙信平に建つ「根岸政徳君碑」 [石碑]

太平山県立自然公園の謙信平には、数基の石碑が建てられています。その中で多くの市民に知られている石碑は、西端小丘上に建てられた「山本有三文学碑」でしょうか。
今回紹介する石碑は、この文学碑と同じ小丘の上に建てられたいます。小丘東側から文学碑への登り口の右脇に建つ高さが3メートル近くある大きな石碑です。
根岸政徳君碑が建つ小丘.jpg
(山本有三文学碑への登り口右側に石碑が建てられています)

木の陰に隠れる様に建つ石碑に、気付く人は殆んど居ません。「山本有三文学碑」と記した道標に従って、小丘の石段を登って行ってしまいます。

根岸政徳君碑正面写真.jpg篆額部拡大写真.jpg
(石碑正面全体写真)              (石碑上部篆額部、拡大写真)

石碑の上部、篆額の文字を読んでみます。「根岸政徳君碑」と篆書体で陽刻されています。
揮毫された方は、元初代栃木県令で、明治33年当時、貴族院議員従三位勲一等男爵の鍋島幹です。
碑文の撰は、新潟県知事正五位勲四等文学士の千頭清臣。書は梨本宮家令従七位勲八等の日高秩父に成ります。
碑文全文を書き写しました。
根岸政徳君碑(碑文).jpg根岸政徳君碑(碑陰).jpg
(「根岸政徳君碑」の碑文書き写し) (碑陰には発起人31名の外、108名の名前が)

石碑の「根岸政徳」と言う人物については、碑文中にその生い立ちから経歴に至るまで記されていますが、私の苦手な漢文表記の為、容易に読み下すことが出来ません。文中の漢字を拾い上げて推測するのが精一杯です。
明治期以降の栃木市内の著名人をまとめた、下野新聞社発行の「郷土の人々(栃木・小山・真岡)」の中に、「初代町長が手腕発揮」のところで、≪・・・明治22年の町村制施行で新たに栃木町としてスタートするわけであるが、初代町長には、現在の旭町裁判所西側に有った足利藩戸田家の陣屋で代官をつとめていた根岸政徳が選ばれた。根岸は、戸長鈴木宗四郎から過渡期にある栃木町を引き継ぎ、見事な手腕を持って新しい行政の体制確立に力を尽くすのである。・・(後略)≫
それでは、何故太平山上謙信平のこの場所に建碑されたのか。昭和52年に発行された「栃木郷土史」(歴史図書社発行)の中に、第五節 産業施設の開発の部分に、≪明治維新後における道路の発達は、主として商業の自由を目的としたものであったが、・・(中略)・・太平道は24年初代栃木町長根岸政徳の尽力により改修された。≫と記されている。今回の碑文中にも、≪太平祠四時風光之美鳴・・(中略)・・公園文人雅客尋奇訪秀者不絶踵唯道路険悪莫人不苦・・(中略)・・作一新路坦坦如砥登山如往平地於是崇神訪勝之人曰加多≫と刻まれています。現在の県道太平山公園道が整備されたことで、太平山に訪れる事が容易となり、益々発展する事と成った事で、その功績を讃えこの地に建碑されたのである。

石碑の背面には多くの建碑に関係した人びとの名前が連ねられてます。その数は発起人を含め139名、他に「太平神社社務所」や「倭町三丁目」「栃木米麻取引所・仲買中」「河合町」「石町」等の団体名も見られます。発起人冒頭の人物「大塚惣十郎」は、根岸政徳町長の後を引き継いだ、第二代栃木町長です。その他、その当時の町会議員の名前も多くみられます。これらは多く当時の栃木町の有力者達です。

山本有三文学碑の前には、「山本有三」の説明板が建てられていますが、市内に建つ多くの石碑にも、出来れば同じような説明板が有れば良いのにと、いつも感じています。
山本有三文学碑小.jpg山本有三説明板.jpg
(太平山謙信平に建つ「山本有三文学碑」)    (山本有三氏の説明板)






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