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近龍寺境内片隅に置かれた、石造りの梵鐘 [梵鐘]

栃木市の市街地中心部にある浄土宗の古刹、三級山近龍寺。
近龍寺本堂.jpg
(浄土宗の寺院、三級山近龍寺の本堂。栃木市指定文化財になっています。)
その境内の片隅、鐘楼に向かって左手奥、枝振りの良い松の木の下で、枝に隠れる様に置かれた、石造りの梵鐘が有ります。
鐘楼.jpg
(鐘楼、その向かって左手奥、松の木の下に石造りの梵鐘が置かれています)
近くに寄って見ます。形状的には一般的ですが、吊る場合は上部の竜頭の両脇にフックを掛ける金具がついています。高さは竜頭部も含めて約130センチメートル程度でしょうか。
石造りの梵鐘1.jpg石造りの梵鐘2.jpg
(松の木の下、宝篋印塔と並ぶ、石造りの梵鐘) (梵鐘の高さは、竜頭上部まで約130㎝)
鍾身の袈裟襷は、水平方向に上帯・中帯・下帯の三本、垂直方向に四本の縦帯で円周上に四分割しています。正面の縦帯には、「三級山近龍寺」と陽刻され、その下に蓮華文の撞座が施されていますが、この撞座の位置は通常縦帯と中帯の交点に有るのが一般的です。
乳の間には一区画に縦横五列で、25個の「乳」と呼ばれる丸い突起が、規則正しく配列されて、円周上に四区画有りますから、合計百個になります。通常は他に縦帯の上部に2個の乳を付けて、総計百八個という煩悩の数と同じになっているようです。
乳の間の下側、池の間と称する部分に、何やら文字が陰刻されていますので、円周上時計回りに確認をしていきます。

正面縦帯部分.jpg池の間1.jpg
(正面から撮影、縦帯に山号と寺号)  (左隣の池の間①に刻まれた文言)
当寺の山号・寺号の有る縦帯に向かって左隣の池の間(説明上、第1区とします)に刻された文字は、右から左に
   「梵誉 三誉 名誉」 と住職さんの名前(誉号)でしょうか、3名並んでいます。
   「鋳物師大工 野村惣兵衛 藤原久信 同名 六郎兵衛」と、鋳物師3名の名前が並ぶ。
   「元禄十丁丑歳十月二十七日」 日付けです、西暦では1697年12月10日になります。
   「高五尺  口經二尺五寸七分」 鍾身の寸法で高さ約151cm、直径が約78cmです。
   「重量五二二瓩」 重量は522kg 
   「供出價額四百六十四円五十銭」 求めに応じて差し出した時の金額464円50銭。

次、左隣の池の間(第2区)には文字は確認されません。更にその左は正面の縦帯の180度反対側に当たりますが、その縦帯には「南無阿弥陀佛」の文字が陽刻されています。その下方中帯との交点に撞座が付いています。これは一般的な位置になります。
背面縦帯部分.jpg池の間3.jpg
(縦帯部分に「南無阿弥陀佛」と陽刻)    (池の間③の左端に日付け等陰刻有り)
更に左に回り込み、池の間(第3区)を確認します。その池の間の左端に文字が陰刻されています。
  「昭和十八年十月二十七日」 この日付、梵鐘を供出した日か、このレプリカの完成日か。
  「近龍寺第二十六世鏡誉」  昭和18年10月27日当時の住職さんでしょうか。

次の池の間(第4区)、ここは最初の正面縦帯の右隣に位置する区域です。
池の間4.jpg
(正面縦帯の右隣、池の間④に整然と陰刻された文言)
この池の間(第4区)に陰刻された文字は、以下の通りです。
    經白
    天下和順日月清明
    風雨以時災厲不起
    國豊民安兵才無用
    崇徳興仁務修禮譲
    頌白
    一聴鍾聲當願衆生
    脱三界苦速證菩提

これらの文の意味を、Web版「新纂浄土宗大辞典」に求めました。
まづ「經白」の部分については、「祝聖文」として記されていました。その意味の部分を抜粋させて頂きます。
≪天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も起きず、国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、務めて礼儀と謙譲の道を修めます。≫という意。
又、「頌白」の部分については、「聴鐘声功徳文」の解説に有りましたので、その意味の部分を抜粋させて頂きます。
≪ひとたび鐘の音を聴けば、人々共に三界の苦しみを脱して、速やかに悟りを成就することを願う。≫との意。
これで一周し、全て確認出来ました。
以上の内容より、私が思うに、この石造りの梵鐘は、昭和18年の第二次世界大戦時に出された「金属類回収令」により、供出を余儀なくされた際、近龍寺の関係者の方々が、せめてその姿を残そうと石を刻んで造ったレプリカと考えます。寸法的には元の梵鐘の方が、記された寸法より判断すると、一回り大きかったと思われます。

ここで、現在鐘楼に設置されている梵鐘についても確認しておきます。
ただ、鐘楼にのぼることは出来ませんので、下から確認できる範囲で、調べてみます。
鐘楼の梵鐘1.jpg
(近龍寺鐘楼で毎朝6時に、時を告げる梵鐘)
鐘楼の梵鐘2.jpg鐘楼の梵鐘3.jpg
(撞木を受ける撞座の有る縦帯部分)    (撞木の反対側の縦帯部分)
撞木の有る部分に写る縦帯部分には、中央に「三級山 近龍寺」と大きく陽刻され、その右側に「昭和三十一年八月」の日付け、そして左側に「第二十六世 鏡誉」の名前(誉号)が同じく陽刻されています。
昭和18年、戦争の為に供出され、終戦後11年新しい梵鐘を迎えられたことに成ります。どちらも近龍寺第26世住職、鏡誉さんの時でした。
その縦帯の左隣の池の間に、「善野佐治平」「岡田嘉右衛門」等々発起人の名前が陰刻されています。
又、その180度反対側縦帯部分には、「南無阿弥陀佛」と大きく陽刻され、その右隣池の間には石造り梵鐘にもあった「經白」以下の「祝聖文」が、又、左隣の池の間には、同じく「頌白」以下の「聴鍾声功徳文」が、陽刻されています。この部分が梵鐘の正面に当たるのかもしれません。
鐘楼の梵鐘5.jpg鐘楼の梵鐘4.jpg
(正面より左側面の縦帯部分)        (鍾身の上部、竜頭部分)
側面に当たる縦帯部分に「鋳物師高松市藤塚町 多田丈之助宗春」の名前が陽刻されています。

鐘楼の天井に設置した金属の吊り具が、梵鐘の上部笠形をしっかりと銜えこんだ竜頭の穴に通されています。見ているとここだけで良く重い鍾身を壊れずに支えているなと感心します。
乳の数も縦帯の上部にそれぞれ2個付いていて、総数で煩悩の数と同じ108個に成っています。
外にも池の間の一区画に文章の様な物が陰刻されています。その冒頭部分にピントを合わせて、何とか読んで行くと「寛文二年近龍寺が時鍾所となり・・・・」の文字を確認出来ました。
栃木市発行の「目で見る栃木市史」の中に、「時の鐘」についての解説文が載っていました。一部を抜粋して紹介します。
≪人口も増加、町がにぎわいを見せるようになると、町民に時刻を知らせるための時の鐘も必要になってくる。こうして領主阿部対馬守に願って時鐘所を町のほぼ中央にあたる近龍寺に設けたのが寛文二年(1662)であった。・・・(後略)≫
昭和31年8月、江戸時代より栃木の街に時を知らせた、近龍寺の梵鐘が復活しました。

今もなお毎朝6時には、「ゴォゥン~・ゴォゥン~」と、栃木の街に時を知らせる、近龍寺の鐘の音が、響わたっている、と聞きます。

※参考資料:
  ・「目で見る栃木市史」(栃木市発行)
  ・Web版「新纂浄土宗大辞典」
  ・ウィキペディア「梵鐘」


    



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