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栃木市吹上町の元村役場敷地に建つ「合併記念」の石碑 [石碑]

今回は、栃木市吹上町の元「下都賀郡吹上村役場」が有った場所に建つ「合併記念」の石碑を紹介します。
石碑が建てられているのは、合戦場町から大皆川町に通ずる市道1024号線沿い、吹上町のほぼ中央部を横断するこの道路を進むと、道路北側に建つ火の見櫓が目印となる。
吹上町火の見櫓.jpg
(火の見櫓が建つ、元吹上村役場前)

東隣にはかつての吹上村の村社「住吉神社が鎮座し、道路脇には参道入口の石の鳥居が確認出来ます。
住吉神社参道入口.jpg
(元村社の住吉神社参道入口)

元下都賀郡吹上村役場の跡は現在更地で、入口に建つ石の門柱に刻まれた「吹上村役場」の文字が、ここに村役場が有った事を物語っています。
吹上村役場の門柱.jpg
(石柱、右側に「栃木縣下都賀郡」、左側に「吹上村役場」の文字が)

敷地内には大きな石碑が2基建てられています。
合併記念碑.jpg
(敷地西側隅に建つ「合併記念」の石碑)

今回紹介する石碑は、敷地の西の端に東向きに建てられています。高さ4メートル以上になる石碑の上部の篆額に、「合併記念」の文字が篆書体で大きく刻まれています。
篆額部.jpg
(石碑上部の篆額部分には、篆書体にて「合併記念」と浮彫されている)

揮毫した人物は、石碑左下隅に石工と並んで彫られていました。「淡翠渡邉茂里」と言う方ですが、どんな人物なのか調べてみましたが分かりませんでした。ちなみに石工は「相田忠吉」と言う人物です。
揮毫者と石工.jpg
(石碑正面左下隅に、揮毫者と石工の名前が並ぶ)

石碑表面にはビッシリと文字が刻まれています。整然とした升目に収まる文章は、横35行、縦75列、四百字詰原稿用紙7枚にもおよぶ碑文ですが、漢字とカタカナの文章はとても読みやすいものです。碑文全体を書き写しました。但しカタカナ部は読み易くする為ひらがなに書き換えました。
碑文.jpg
(碑文全文、現物は漢字とカタカナで記されています)

この碑文の内容は、碑文最後にも記されています、「昭和二十八年町村合併促進法の施行により昭和二十九年九月三十日を以て六十有餘年の傳統ある吹上村を發展的に解消して皆川寺尾大宮の三村と共に栃木市に合併す 依って茲に碑を設立し本村沿革の概略及び現況を述べ併せて本村自治功労者の氏名を刻し永く其の功績を傳わる事とせり」 と。

碑文を撰したのは三名です。石碑の碑文の後に刻まれています。
撰文者の名前.jpg
(上から、霞城渡邊彌三郎 愛山奈良部彌太郎 良圃塩谷良平です。)

碑文に記された村の沿革の中には、村教育の進展状況についても記されています。
「吹上小学校」は、明治六年、善應寺を校舎として開校した「明善学校」と、川原田の「涵養学舎」 細堀の「稽式学舎」 野中の「開盲学舎」等が、明治十八年併合村となって合わさり「吹上小学校」と改称したのが始まり。明治二十二年三月現在の地に校舎を新築し分校を合わせて「吹上尋常小学校」と改む、明治二十三年高等科を併置し「吹上尋常高等小学校」となる。明治四十五年五月農業補習学校を附設、昭和十六年四月国民学校令実施により「吹上第一国民学校」と改称。昭和二十二年四月新学制実施により「吹上村立吹上小学校」となる。
吹上小学校.jpg
(桜咲く吹上小学校)

「千塚小学校」は、明治六年「不如学舎」と称して開校、犬塚千手の両村併合し千手村立の「國平舎」と合併し、明治十二年「公立弘文学校」と改称、明治十八年併合村となり「千塚小学校」と改称。明治三十年現在の地に校舎を新築。昭和十六年国民学校令実施により「吹上第二国民学校」と改称、昭和二十二年四月新学制により「吹上村立千塚小学校」となる。
千塚小学校.jpg
(モダンな建屋の千塚小学校)

外に「吹上中学校」の事、「吹上消防団」の事、「吹上村農業協同組合」の事なども記されています。

碑陰.jpg
 (碑陰には歴代の村三役を始め、自治功労者の名前が刻まれています)
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