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謡坂(栃木市)に建つ石碑 [石碑]

栃木市から佐野市に行くルートのひとつに、主要地方道75号線(栃木・佐野線)が有ります。
この道路は、栃木市街地の中心点(倭町交差点)を起点として、西に向かい皆川城内町を抜け、廻り峠を越え、岩舟町小野寺を抜け佐野市伊勢山町で、主要地方道67号(桐生・岩舟線)と合わさる、伊勢山町交差点を終点としていますが、今回紹介する石碑が建つ謡坂(うたいざか)はこの道路の栃木市と佐野市の境界線となる地点に成ります。

石碑は、この栃木市と佐野市との境界線近くの、栃木市側の道路脇に建てられています。
道路脇と言っても、この道路、現在私たちが通常通行している道路では有りません。現在の道路の西側にほぼ並行して有る旧道の方に成ります。

この旧道、私も今回初めて通りましたが、「謡坂」の名称の通り、道路幅4から5メートル程の峠道になっていて、坂の一番高くなっている所が、市の境に成っている様で、「佐野市」と書かれた道路標識が立てられていました。

栃木市側から行くと、この「謡坂」の旧道は、岩舟町小野寺の集落を抜けて、北関東自動車道の高架下を潜った直ぐその先で、道路は大きく右にカーブをしていきますが、その手前で右側に分岐する細い道路が旧道の入口です。
謡坂1.jpg

旧道に入ると、道路は上り坂と成ります。道路の両側には人家や神社などが見られます。
謡坂2jpg.jpg

更に進むと、道路は更に狭くなってきました。道路の右側に今回紹介する石碑が現れました。その手前に白色のポールが建っていますが、以前ここに「岩舟町」と書かれた道路標識が有りました。
謡坂3.jpg

道路はまだ登って行きますが、坂を登り切った地点に「佐野市」と記した道路標識が建っています。
謡坂4.jpg

佐野市側に入ると道路は下り坂と成ります。道路脇の雑木の為道路が狭くなっています。
謡坂5.jpg

更に下って行くと、次第に視界が開けて、前方で広い道路に合流して行きます。旧道はここまでで、元の道路に戻りました。
謡坂6.jpg

上の写真の中央奥に、山を崩して砕石を採っている様子が写っていますが、元々この旧道の東側にも西側同様山になっていました。旧道は正に山合を抜ける峠道でした。
現在通行している新道は、山を崩して低くなった所を利用して道路が作られたことに成ります。新道は旧道の地点よりも20メートル程低いルートを通しています。

謡坂新道.jpg
上の写真は、新道脇から南方向を撮影したもので、道路右側(西側)の山の中程に、電柱が並んでいるのが確認出来ます。その所に旧道が走っています。
写っている山の標高は約160メートル程で、旧道の坂の最高点は75メートル程、私が写真を撮っている場所が丁度標高50メートル程度です。この新道が抜けている場所には、標高100メートル程の山が有りました。国土地理院が昭和32年5月30日に発行した5万分の1の「栃木」の地形図を確認すると、まだ新道は無く旧道が切通状に山合を抜けている状態で描かれています。そしてそこに「謡坂」と記されています。
ただそれは坂の名前ではなくその所の字名になります。イコール坂の名前でも有ります。

現在新道の東側にて、山を削って砕石を採取している会社の名前は、「株式会社藤坂」と言い、この場所の現場の名称は「音坂工場」となっています。
なぜ「謡坂工場」ではないのか、私は地元住民では無いので分かりませんが、「音坂」の方が言い易い気がします。
地名について岩舟図書館で資料を物色して行くと、「小野の里」という、小野寺むらづくり推進委員会発行 地域文化研究部会編集の小冊子が見つかりました。その中に「小野寺の地名」の一覧表が有り、そこに<謡坂 オトザカ(音)・ウタイザカ>と記されていました。地元の人達は、「オトザカ」と言っている様です。これで「音坂工場」となっていることに、納得しました。


前置きが長くなってしまいました。石碑を見ていきたいと思います。
石碑表面.jpg碑陰.jpg
石碑の正面からと裏側からの、2枚の写真を載せました。

道路側から見える、石碑正面には「坂路改修紀念碑」と有ります、その左側に「栃木県会議長 松永和一郎書」、その下には「石工 小田鐵碩■」(最後の文字は私には何の漢字か判断できなかった)
揮毫者と石工の署名部分は以下の写真の通りです。揮毫者「松永和一郎」氏の肩書部分もなかなか達筆で判断に迷いましたが、碑陰の功労者に「松永和一郎」氏の名前が有り、その肩書の文字で判明しました。
揮毫者署名.jpg石工署名.jpg

次に碑陰を見てみます。
最上部に、「改修貢献者芳名」として、関係役所の土木課長さんや土木主幹・土木技手の氏名が並んでいます。この紀念碑の対象とした事業は1回では無く、6回の事業に渡っていることが分かります。
一番古い所は「大正十一年郡道謡坂改修」それから大正十三年、大正十五年、昭和二年、と続き最後が「昭和四年縣道謡坂改修」となっています。時代の流れで「郡道謡坂」から「縣道謡坂」に変わって来ています。それぞれの事業で関係した役所の人物が記されています。
そして最後に「功労者」として二名の名前が並んでいます。一人は碑銘を揮毫した「栃木縣會議長 松永和一郎」氏、そしてもう一人は「栃木縣農會議員 野尻金一郎」氏です。
次の2段目から8段目にわたって、「寄附者芳名」がずらっと並んでいます。
その人数は重複も有りますが、「他所」が174名、「地元」が125名となっています。
一番下の段には「工事関係者氏名」が並んでいます。
碑陰の文字を必死に読み移してみました。上下を分割して掲載します。

碑陰上半分.jpg碑陰下半分.jpg

石碑を観察している中で、幾つかの疑問が出てきました。
その一つ疑問は、寄附者を「他所」と「地元」に分けて有りますが、「地元」と言うのは、「小野寺村に限定されるのだろうか。逆に「他所」はどこなのか、「他所」の人の名前の上に小さく住所が記されています。
確認出来た地名は「犬伏町」「堀米町」「足利市」「三谷」「藤岡町」「新里」「佐野町」「上岡」「赤見」「岩舟」「吉水」「旗川」などです。ここに出てこなかったのが「地元」に成るのでしょうが、「大字小野寺」(現在の栃木市岩舟町小野寺)です。石碑が建てられている地点も「小野寺」ですから、これで間違いないでしょう。

次に湧きあがった疑問は、石碑碑陰の最下段「工事関係者氏名」に関してです。
その冒頭に出てくる「阿蘇郡」に列挙されている「発起者」や「世話人」です。
「板橋六郎」「菊池徳太郎」(犬伏町)、「田口勝次郎」(堀米町)、「石塚由蔵」「石塚七平」「金田幸吉」「野本藤吉」(佐野町)。これらの人達は「寄附者芳名」欄でも「他所」の列に全て名を連ねています。
何故、地元民では無い人達が、発起者や世話人で、小野寺の人達でないのか。
ちなみにその次に続く「下都賀郡」の列に並ぶ「相談役」や「(工事)委員長」「副委員長」「會計」「常務委員」「委員」29名は、「寄附者芳名」欄では、「地元」の段に名を連ねています。
この疑問は今後機会が有ったら解明したいと思います。

最後の疑問、この石碑の建立時期は何時なのか、石碑には記されていないのです。
そこで、碑文に記された情報から類推をしていくと。
①最後の改修工事の時期は、昭和四年(1929)ですから、それよりも後に成ります。
②寄附者芳名欄に「栃木町」と出ているので、栃木市制施行昭和十二年(1937)よりも前に成ります。
この間に建てられたことに成ります。これ以上絞り込めませんでした。

石碑とは別ですが、現在私たちが通行している「新道」は、何時開通をしたのだろうか、気に成りました。
地形図では測量から発行までずいぶんタイムラグが有りますから、他の方法は。
国土地理院が提供しているインターネットの空中写真で確認出来ないか、検索してみました。
①平成6年(1994)11月4日撮影写真。旧道しか写っていません。これより後です。
②平成11年(1999)6月9日撮影写真。旧道に並行して新道が写っています。この年より前です。
  ※ちなみに平成11年6月1日発行の5万分の1「栃木」の地形図には、当然新道は描かれていません。

今、この旧道を通行する車は殆ど無くなりました。そしてこの石碑の存在も忘れられようとしています。

今回参考にした資料:
「小野の里」 小野寺むらづくり推進委員会発行
「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人」 石崎常蔵著
「5万分の1地形図栃木」 国土地理院 昭和32年5月30日発行






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