栃木市の神明宮境内に建つ「興学碑」を探る [石碑]
栃木市の市街地の中心に鎮座する、栃木のお伊勢様「神明宮」。
(参道正面奥の大屋根の建物が、神明宮拝殿、左手奥が社務所、そして手前右手に除く瓦葺の建物が「奏樂殿」に成ります。)
神明宮は、神明宮社務所発行の「神明宮略誌」を借りると、その由緒は応永十壬寅年(1403)九月十六日、大字栃木城内の神明宿(現神田町)に創建され。天正十七巳午年(1589)正月十六日現地に奉遷宮されました。以後栃木町の総鎮守となりました。
その境内の片隅、手水舎の裏手、奏楽殿の西側部分に、2基の石碑が建てられています。手前のチョッと小ぶりな石碑は、明治35年4月に建てられた「皇大神宮太上御神樂講」の碑。
今回探っていくのは、その後方に建つ大きな石碑です。
(石碑の正面と裏側から撮影しました。)
石碑正面上部の篆額には「興学碑」と篆書体で刻されています。
篆額に揮毫した人物は、碑文冒頭部に刻されています。「正三位勲四等子爵戸田忠友」です。この官位は石碑が大正天皇の御即位大典記念として、大正4年4月に記された時点のもので、最終官位は大正13年(1924)に昇叙されて、「従二位・勲三等」です。下野宇都宮藩第七代(最後)の藩主で、神職としては、宇都宮二荒山神社の初代宮司となっています。
碑文を見ていきます。従六位勲五等の小村 鄰の撰文となります。
(碑文は大正期に建てられた石碑としては、漢文体でなく、漢字とひらがなの文章で、旧字や旧仮名づかいは有るものの、浅学の私にも比較的理解できる文章に成っています。)
撰文者「小村 鄰(こむら ちかし)」は、嘉永元年(1848)11月9日、下総国古河藩士の長男として生まれました。明治5年栃木町神明宮の祠官となり、ついで宇都宮二荒山神社權宮司、さらに札幌神社宮司などを経て、明治33年伊勢神宮禰宜となっています。
尚、碑文を書いた人物は、栃木縣屬勲七等の保田義嗣という人物です。
篆額に有る「興学」とは、まず「興」の字は、動詞として「おこる」「おこす」「たちあがる」や「盛んになる」の意味が有り、「興国」とすれば、国勢をふるいおこすこと。であり、一方「学」の字は、名詞として「学問」や「まなびや」「学校」又、「学問をする人」などの意味が有り、「興学」と成れば、「学問や学校、学問をする人をおこす、盛んにする」という事に成るのか。
碑文の中には、ここ、神明宮の境域に接する地に、神道中敎院を新築した当時の経緯が、記されています。栃木市発行の「目で見る栃木市史」の学校教育のはじまりの項に、「中教院」について記されていますので、参照させて頂くと、(敬神の天道を経とし、愛国の人道を緯として教化する目的として、明治五年(1872)三月大教院を東京に設け、同六年には中教院を各府県に置くことになり、栃木県では同七年一月太平山に設け、小教院を大田原・鹿沼・宇都宮・足利の各地に設けた。明治八年(1875)四月には神仏共同布教は廃され、神道はその統一をはかるため神道事務所を東京に置き、その分局を各地方に設けることとなり、栃木町の田村良助の邸内に仮設し、かつ神道中教院を県社神明宮の境域に接する地、数反歩を購入して神道中教院を新設した。このとき建設寄附金一万円余、太平山神社は造営に要する杉・桧材、稲葉村鹿島神社は欅材、真弓村諏訪神社は石材、実行・禊両社員は聖地の労役を提供した。・・後略・・)と記されています。この内容は今回の石碑の碑文の内容を要約したものの様です。
次に石碑の裏側、碑陰を見ていきます。なんと石碑の全面にびっしりと沢山の名前が並んで彫られています。右端に「賛成者氏名列刻如左」として、23段に仕切られていて、1段には最大86名の名前が並びますが、賛成者の地域別にあり、途中空白も何ヵ所か見られます。
最初が「東京市」6名、次に「群馬県」6人、「京都府」1人、「伊勢」1人と続きます。栃木県内では、「宇都宮市」48人、「那須郡」25人、「塩谷郡」19人などと、県内の8郡全て確認できます。他に地元「栃木町」として125人と1団体の名前が記されています。
記されている賛成者の数は、1861人と1団体で、寄附された金額の合計は、2,493円にもなっています。
次の資料は、石碑の碑陰のデーターをエクセル表に落とし込んだもので、人数や金額を関数処理できるようにしたものです。
下世話な興味で、寄附された金額で、最も高額な70円を出した人物は、どのような人物か。石碑には「上都賀郡」の筆頭に見える「石原敬之」という人物、調べていくと鹿沼市の古峯神社の第二代宮司でした。次に50円を寄付した人物、二人います。まず「伊勢」の「小村 鄰」ですが、前述した伊勢神宮禰宜で、この石碑の碑文の撰文者。そしてもう一人は同様に石碑の篆額を揮毫した、宇都宮二荒山神社初代宮司「戸田忠友」になります。
寄附額の最低額は1円ですが、この金額現在の金額にするとどのくらいなのか、今から約100年前の1円の価値、現在は4千円から5千円になるようです。70円では30万円前後になるのか。
寄附金総額2,493円となると、現在では1千万円を超える寄附が有ったのです。
現代で言うとこれは一種の「クラウドファンデイング」になるのでしょうか。
寄附をした県内外の多くの人物は、神社の関係者と、この中教院に入って教育を受けた人達、卒業生達です。
碑陰の一番下側には、「發起者」の名前が大きく記されています。
明治新政府は、この時期次々と政府の組織を変更しています。この石碑に出てくる中教院も、明治6年に各府県に置くこととなり、我栃木県でも明治8年11月26日に神明宮境域に土地を購入して「神道中教院」を新築しています。その中教院が僅か7年後に閉鎖となってしまいます。
中教院の土地建物は、神明宮に献納されています。現在の神明宮の拝殿としている建物は、元中教院の建物を社殿として補修を加えたものとの事。
「興学碑」の石碑の碑文には、そうした経緯を、歴史の一幕を、もれなく刻みこんで、今も神明宮の境内の片隅に、静かにただ建っています。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」 発行栃木市
・「神明宮略誌」 神明宮社務所発行
・「栃木縣神社誌」 発行栃木県神社庁 昭和39年2月11日
・「下都賀郡小志」 発行(株)歴史図書社 昭和52年2月28日
・「復刻版 栃木郷土史」発行吉本書店 平成5年4月1日
・「郷土の人々」 発行下野新聞社 昭和47年6月28日
(参道正面奥の大屋根の建物が、神明宮拝殿、左手奥が社務所、そして手前右手に除く瓦葺の建物が「奏樂殿」に成ります。)
神明宮は、神明宮社務所発行の「神明宮略誌」を借りると、その由緒は応永十壬寅年(1403)九月十六日、大字栃木城内の神明宿(現神田町)に創建され。天正十七巳午年(1589)正月十六日現地に奉遷宮されました。以後栃木町の総鎮守となりました。
その境内の片隅、手水舎の裏手、奏楽殿の西側部分に、2基の石碑が建てられています。手前のチョッと小ぶりな石碑は、明治35年4月に建てられた「皇大神宮太上御神樂講」の碑。
今回探っていくのは、その後方に建つ大きな石碑です。
(石碑の正面と裏側から撮影しました。)
石碑正面上部の篆額には「興学碑」と篆書体で刻されています。
篆額に揮毫した人物は、碑文冒頭部に刻されています。「正三位勲四等子爵戸田忠友」です。この官位は石碑が大正天皇の御即位大典記念として、大正4年4月に記された時点のもので、最終官位は大正13年(1924)に昇叙されて、「従二位・勲三等」です。下野宇都宮藩第七代(最後)の藩主で、神職としては、宇都宮二荒山神社の初代宮司となっています。
碑文を見ていきます。従六位勲五等の小村 鄰の撰文となります。
(碑文は大正期に建てられた石碑としては、漢文体でなく、漢字とひらがなの文章で、旧字や旧仮名づかいは有るものの、浅学の私にも比較的理解できる文章に成っています。)
撰文者「小村 鄰(こむら ちかし)」は、嘉永元年(1848)11月9日、下総国古河藩士の長男として生まれました。明治5年栃木町神明宮の祠官となり、ついで宇都宮二荒山神社權宮司、さらに札幌神社宮司などを経て、明治33年伊勢神宮禰宜となっています。
尚、碑文を書いた人物は、栃木縣屬勲七等の保田義嗣という人物です。
篆額に有る「興学」とは、まず「興」の字は、動詞として「おこる」「おこす」「たちあがる」や「盛んになる」の意味が有り、「興国」とすれば、国勢をふるいおこすこと。であり、一方「学」の字は、名詞として「学問」や「まなびや」「学校」又、「学問をする人」などの意味が有り、「興学」と成れば、「学問や学校、学問をする人をおこす、盛んにする」という事に成るのか。
碑文の中には、ここ、神明宮の境域に接する地に、神道中敎院を新築した当時の経緯が、記されています。栃木市発行の「目で見る栃木市史」の学校教育のはじまりの項に、「中教院」について記されていますので、参照させて頂くと、(敬神の天道を経とし、愛国の人道を緯として教化する目的として、明治五年(1872)三月大教院を東京に設け、同六年には中教院を各府県に置くことになり、栃木県では同七年一月太平山に設け、小教院を大田原・鹿沼・宇都宮・足利の各地に設けた。明治八年(1875)四月には神仏共同布教は廃され、神道はその統一をはかるため神道事務所を東京に置き、その分局を各地方に設けることとなり、栃木町の田村良助の邸内に仮設し、かつ神道中教院を県社神明宮の境域に接する地、数反歩を購入して神道中教院を新設した。このとき建設寄附金一万円余、太平山神社は造営に要する杉・桧材、稲葉村鹿島神社は欅材、真弓村諏訪神社は石材、実行・禊両社員は聖地の労役を提供した。・・後略・・)と記されています。この内容は今回の石碑の碑文の内容を要約したものの様です。
次に石碑の裏側、碑陰を見ていきます。なんと石碑の全面にびっしりと沢山の名前が並んで彫られています。右端に「賛成者氏名列刻如左」として、23段に仕切られていて、1段には最大86名の名前が並びますが、賛成者の地域別にあり、途中空白も何ヵ所か見られます。
最初が「東京市」6名、次に「群馬県」6人、「京都府」1人、「伊勢」1人と続きます。栃木県内では、「宇都宮市」48人、「那須郡」25人、「塩谷郡」19人などと、県内の8郡全て確認できます。他に地元「栃木町」として125人と1団体の名前が記されています。
記されている賛成者の数は、1861人と1団体で、寄附された金額の合計は、2,493円にもなっています。
次の資料は、石碑の碑陰のデーターをエクセル表に落とし込んだもので、人数や金額を関数処理できるようにしたものです。
下世話な興味で、寄附された金額で、最も高額な70円を出した人物は、どのような人物か。石碑には「上都賀郡」の筆頭に見える「石原敬之」という人物、調べていくと鹿沼市の古峯神社の第二代宮司でした。次に50円を寄付した人物、二人います。まず「伊勢」の「小村 鄰」ですが、前述した伊勢神宮禰宜で、この石碑の碑文の撰文者。そしてもう一人は同様に石碑の篆額を揮毫した、宇都宮二荒山神社初代宮司「戸田忠友」になります。
寄附額の最低額は1円ですが、この金額現在の金額にするとどのくらいなのか、今から約100年前の1円の価値、現在は4千円から5千円になるようです。70円では30万円前後になるのか。
寄附金総額2,493円となると、現在では1千万円を超える寄附が有ったのです。
現代で言うとこれは一種の「クラウドファンデイング」になるのでしょうか。
寄附をした県内外の多くの人物は、神社の関係者と、この中教院に入って教育を受けた人達、卒業生達です。
碑陰の一番下側には、「發起者」の名前が大きく記されています。
明治新政府は、この時期次々と政府の組織を変更しています。この石碑に出てくる中教院も、明治6年に各府県に置くこととなり、我栃木県でも明治8年11月26日に神明宮境域に土地を購入して「神道中教院」を新築しています。その中教院が僅か7年後に閉鎖となってしまいます。
中教院の土地建物は、神明宮に献納されています。現在の神明宮の拝殿としている建物は、元中教院の建物を社殿として補修を加えたものとの事。
「興学碑」の石碑の碑文には、そうした経緯を、歴史の一幕を、もれなく刻みこんで、今も神明宮の境内の片隅に、静かにただ建っています。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」 発行栃木市
・「神明宮略誌」 神明宮社務所発行
・「栃木縣神社誌」 発行栃木県神社庁 昭和39年2月11日
・「下都賀郡小志」 発行(株)歴史図書社 昭和52年2月28日
・「復刻版 栃木郷土史」発行吉本書店 平成5年4月1日
・「郷土の人々」 発行下野新聞社 昭和47年6月28日
2024-05-28 10:22
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