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栃木第二公園と神明宮の敷地内に建つ石碑を巡る [石碑]

蔵の街栃木の中心部に、天正十七年(12589)皆川広照によって、栃木城内神明宿(現在の神田町)から現在地に移され、以後栃木町の総鎮守として鎮座する「神明宮」。そしてその南側に隣接する「第二公園」が、今も四季を通して市民の憩いの場となっています。そしてこの敷地内には、多くの石碑が建てられていますので、今回はそれらの石碑を見て廻りたいと思います。
初めに今回巡る石碑の建つ場所を、概略図に表してみました。
神明宮・栃木第二公園内に建つ石碑の分布図.jpg

便宜上石碑に番号付けして、その番号順に巡っていきたいと思います。

1番目の石碑は、神明宮の参道の右手「手水舎」の西側に建つ二基の石碑の大きな方。石碑上部の篆額に大きく「興学碑」と刻まれている石碑です。
「興学碑」と手前「皇大神宮太上御神楽講」.jpg
実は、この石碑に関しては、今年の5月28日付け<栃木市の神明宮境内に建つ「興学碑」を探る>で、紹介させて頂いてますので、興味が有りましたら、そちらも覗いて見て下さい。

この石碑は、大正天皇の御即位大典記念の事業の一つとして、大正四年に建てられたものになります。碑文のしっかりと刻まれて読みやすいと感じました。書き写した碑文を掲示します。又、碑陰には栃木県内全域はもとより、全国各地からの賛同者の名前を見ることが出来ます。その数1,861人と1団体にも成っています。
神明宮「興学碑」(碑文).jpg
篆額の「興学碑」の文字を揮毫したのは、下野宇都宮藩第七代藩主の子爵戸田忠友。
興学碑篆額.jpg
(篆額部拡大写真)
碑文を撰した人物は、伊勢神宮禰宜の小村鄰(下総古河藩士の長男に生まれ、明治5年栃木町神明宮祠官となる)です。
神明宮「興学碑」(碑陰芳名一覧書き写し).jpg
碑陰の芳名者について調査記録する為、エクセル表に記録をしました。
この石碑には、明治期初期の中教院をめぐる動きを中心に、歴史の一幕が記されています。

2番目は、興学碑の前に建つ小ぶりな石碑です。
「皇大神宮太上神楽講」碑全景.jpg「皇大神宮太上神楽講」碑の碑陰.jpg

石碑正面に「皇大神宮太上御神樂講」と大書されています。碑陰には「明治三十五年四月建之」その脇に「半古柳田無忝書」と有ります。石工は松村三瓢です。
皇大神宮は、三重県伊勢市に有る神社。一般には「内宮」と呼ばれています。

3番目は、神明宮社殿の裏手、現在第二公園瓢箪池に流れ込む水路の源に建てられている石碑です。
神明宮社殿裏手の水源.jpg
(現在の神明宮社殿裏手を流れている水路、手前は地下水が汲み上げられ、湧き出ている)

石碑上部に「御手洗水」と刻まれ、その下に「萬町」「倭町」「室町」「湊町」「嘉エ門町」「旭町」の町名と数人の名前が並んでいます。下側は土が付着して見えません。何時頃建てられたものか残念ですが確認できません。
「御手洗水」の碑.jpg「御手洗水」の碑芳名一覧.jpg
石碑に記されている人名から推定できるか、確認出来る名前を探した結果、平澤浅次郎と根岸政德の二人しか判明しなかった。この二人が活動した期間が石碑が建てられた時期に当たるものと推測。すると平澤浅次郎は、弘化4年(1847)から昭和2年(1927)まで享年81歳との長寿でした。それに対して根岸政德は嘉永6年(1853)から明治27年(1894)までで、享年42歳の生涯でした。したがって根岸政德の活動時期だけ見ると、彼は明治24年(1891)4月に、栃木町の初代町長となり、そこから亡くなるまでの約3年間の間にこの石碑が建てられたと考えて良いのではないかと思います。

尚、私が子供の頃には、現在旭町三丁目公民館が建っている場所には、お稲荷さんが祀られていて、その周りに滑り台とか、左右にスイングする3・4人乗れるブランコのような遊具が有った記憶が残っています。駄菓子屋の様なお店も有って、もんじゃ焼も出来た。神明宮側から来るには、湧水からの水路に架かる板の橋を渡らなければならなかった。今は全くその頃の面影は無くなっている。お稲荷さんは、今は参道の左手、手水舎の反対側に移されています。
神明宮裏手の親水公園.jpg1988年11月撮影.jpg
(上の写真2枚の内最初は現在の神明宮社殿裏手の「親水公園」です。水路を汲み上げた水が流れ、瓢箪池に通じています。水路の奥に見える建物が、旭町三丁目公民館です。そして2枚目が以前の写真で、水路は深く広く、板橋の向こう側に鳥居、そして稲荷神社が有りその奥に、お店が写っています。)

4番目の石碑は、第二公園側敷地の中央辺り、遊具が有る児童公園と瓢箪池が有る庭園との境界辺り、花壇の中に建てられています。
芭蕉句碑.jpg第二公園芭蕉句碑碑陰2.jpg

石碑正面には、<叡慮にて 賑ふ民の 庭竈>という、芭蕉の句が刻まれています。
この石碑は、明治三十三年五月十日の皇太子(後の大正天皇)のご成婚を祝って、栃木町長櫻井源四郎の発起で建てられたようです。碑陰に刻まれている人達は、その当時町内の著名人(俳人)達です。

この石碑に関しても、今年の5月3日付けでこのブログで紹介をしています。

5番目の石碑は、上部に「千歳松」と刻まれた石碑です。
「千歳松」の碑.jpg
この石碑は、残念ですが現在は倒れています。場所は、瓢箪池の南西部、松の木の根元に碑陰を上にして倒れた状態のままになっています。
「千歳松」の碑の現状.jpg「千歳松」の碑.jpg
実際は「千歳松」の、「歳」の文字は冠部が「止」ではなく「山」(やまかんむり)の漢字が使われています。又、その下に刻まれている、おそらく和歌と思われますが、私には読むことが出来ませんでした。

6番目の石碑ですが、この石碑も現在倒れてしまっています。
以前撮影した写真が有りますが、木立の陰になってハッキリ文字を読むことが出来ませんでした。
日露戦役記念碑.jpg現在の日露戦役記念碑.jpg

石碑正面に刻まれた文字は、「日露戰役記念碑」その左横に揮毫者「元帥侯爵山縣有朋書」の名前が見えました。碑陰の碑文は「平安 劉須謹撰併書」、そしてこの石碑を建てたのは、「栃木町 戰時義會建之」となっています。

次、7番目の石碑は、瓢箪池の北西側池の脇に建てられています。
瓢箪池畔に建つ句碑.jpg
写真では少し分かり難いですが、写真中央部に縦長の楕円状の自然石に、寄せ書き風に何句か、俳句が思い思いの字体で記されています。
一部拡大して見ます。
寄せ書き風句碑の一部拡大.jpg
よく観察をすると、俳句の後に「俳号」が読み取れます。確認できた「俳号」を記すと、「一樹」「一寳」「耕圃」などで、これらの俳号は、4番目の芭蕉句碑にも有ったものです。石碑の裏手に「大正四乙卯 」と読めますから、西暦1915年に建立された石碑に成ります。

8番目は、瓢箪池の中の島部分に建てられた、「還御乃松」と刻まれた石碑です。
P1120690.jpg

「還御(かんぎょ)」の意味を広辞苑にて調べると、<①天皇・三后などが行幸啓先から帰ることの尊敬語。②将軍・公卿が他行先から帰ることを、分を越えて用いた語。>と説明されています。残念ながらそれ以上は分かりませんでした。この石碑、噴水の飛沫を浴びているのか、他の石碑に比べて風化が激しいようです。

9番目は瓢箪池の中の島に架かる石橋を渡って、池の東側袂に建てられた石碑です。
割れた石碑.jpg割れた石碑一部拡大.jpg
 
この石碑もどう紹介していいか、石碑に刻まれている文字を、私の能力では太刀打ちできません。
言えることは、石碑のほぼ中央で建て割れをしている。そして石碑前面に崩し字で多くの俳句らしき文字が並んでいる。というところで、私のお願いとしては、この石碑に関してご存じの方は、是非ご教示願いたいと、言う事です。

10番目は、池の端の東屋の北側付近に建つ1本の石柱です。
日下開山二代横綱綾川五郎次碑(正面).jpg日下開山二代横綱綾川五郎次碑(側面).jpg
石柱正面に刻まれた文字は、「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」。そして側面には以下の通り。
     綾川五郎次者下野國栃木産享保二年大関 
     備前國岡山候召賜厚禄二代横綱力士也
     明治三十三年十月十二代横綱力士陣幕久五郎土師通髙建之
栃木県宇都宮市からは、初代横綱「明石志賀之助」が出ています。そして栃木市(旧藤岡町)からは、<大相撲史上 最強力士のひとりに数えられる第27代横綱栃木山守也」(板橋雄三郎著「探訪 栃木山」より)>が出ています。
ちなみに綾川五郎次の墓は、市内の天台宗の古刹「定願寺」の墓地内に有ります。又、太平山神社の表参道、隨神門を潜って社殿に向かって石段を登っていくと、参道右手に大きな岩の様な石が有ります。横に建てられた案内には、「綾川五郎次受留めの石」と記されています。

11番目の石碑は、瓢箪池の東側の東屋の近く、築山の脇に建っています。
皇太子殿下御慶事記念公園之碑.jpg皇太子殿下御慶事記念公園之碑(碑陰).jpg
石碑の正面には「皇太子殿下御慶事記念公園之碑」と大きく刻まれています。揮毫者は「宮内大臣正二位勲一等子爵田中光顯謹書」と有ります。又碑陰を見ると「御成婚 明治三十三年五月十日」の文字。
この石碑にも有るように、ここ栃木第二公園そのものが皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚記念事業として、造成されたことが分かります。

12番目の石碑と、13番目の石碑は、築山内に並んで建てられています。
藤田高綱先生之碑と藤田高徳先生追悼之碑.jpg
大きな石碑が12番目で、「藤田高綱先生之碑」で、その左側の小さい石碑が13番目、「藤田高綱先生追悼之碑」と刻まれています。
まず、大きい方12番目の石碑を見ます。
「藤田高綱先生之碑(全景).jpg藤田髙綱先生之碑(篆額).jpg
石碑上部の篆額に「藤田高綱先生之碑」と篆書体で書かれています。その下の碑文には、藤田高綱の生涯が記されています。

藤田髙綱先生之碑(碑文).jpg藤田高綱先生之碑(碑陰).jpg
碑陰には発起人や寄附者の名前が並び、どの範囲の地域からなのか見ると、「栃木町」を始め、「北犬飼村」「富山村」「岩舟村」「小野寺村」「南摩村」「粟野町」「清州村」「結城町」など広範囲の人達から寄附が寄せられていることが分かります。
碑が建てられたのは、大正十年九月で二代目藤田錦太郎正綱の時になります。
万町にある「武徳殿」は、1911年に藤田高綱の尽力よって設立されたもので、1944年に栃木市に寄贈されています。現在も豆剣士達の元気な声が響いています。
武徳殿1.jpg武徳殿2.jpg
この石碑に関しては、2017年9月25日付にて<栃木第二公園の築山上に建つ「藤田高綱先生之碑」>と題して、紹介をしています。

13番目は12番のお隣に並んで建てられている、「藤田高綱先生追悼之碑」です。
藤田高綱先生追悼之碑(全景).jpg藤田高綱先生追悼之碑(碑陰).jpg
碑陰の内容を、書き写してみました。そこには栃木剣道連盟の役員の方々の名前が並んでいます。碑が建てられたのは、昭和39年2月9日の日付が刻まれています。建碑の目的は碑題の通り、追悼とすると、想像するに藤田高綱先生が亡くなられた年、大正2年12月から50年が過ぎたことで、改めて追悼の意を示したのではと。

14番目、最後の石碑に成ります。第二公園の東側入り口から入ると、右手に建っています。
篆額に「正五位藤川君碑銘」と、篆書体文字で刻まれています。揮毫した人物は「内大臣従一位大勲位公爵三條實美」です。
藤川為親の碑.jpg藤川為親の碑(篆額部拡大).jpg

碑文を書き写そうと始めましたが、気持ちが折れて途中で断念してしまいました。文章が漢文体で私の苦手な文と同時に、文字間にゆとりが無く、漢字がびっしりと並んで、更に漢字が独特な形をして、ともかく読みにくいのです。
藤川為親の碑(碑文一部拡大).jpg

碑が建てられたのは明治19年6月、碑文末尾に刻まれていますが、このころはここ第二公園はまだ整備されていなかった為、建碑の場所は別の所だったと推定されます。碑文に目を凝らして見ていくと、最後の方に「建碑」の文字を見つけその後に「墓側」と続いています。そこから「お墓の側らに碑を建てる」とは読まないだろうか。
ちなみに藤川為親の墓は、栃木市湊町の白旗山勝泉院の墓地内に有ります。
藤川為親の墓.jpg
栃木県の第二代県令だった藤川為親は、こよなく栃木町の雰囲気を愛していたと聞きます。明治16年10月30日三島通庸が第三代栃木県令になると、藤川為親は島根県令に異動になります。しかし2年後明治18年8月28日病没しました。享年50歳でした。今は栃木の地に戻り、静かに眠っています。

以上で、神明宮と栃木第二公園の敷地内に建てられた、14基の石碑を一通り見ました。まだまだわからない事も多いので、今後とも資料や情報の収集をしていきたいと考えています。













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