野麦峠を越える [石碑]
先月、久しぶりに家族で1泊旅行をしてきました。
例年8月のお盆休みに、家族そろって日帰りでドライブを楽しむ程度でしたが、今年は子供たちの休みがうまく重なったので、急遽一泊旅行にしようと言う事になったのが、7月の末。
まず、何処へ行こうかとなる。ここ最近は山形県や宮城県と東北方面が続いていたので、今回は中部地方を目的地に定め、まず泊まれる宿探しを始める。これらの作業には私は加われない。子供らがスマホを駆使して、空いているホテル探しをする。7月末で8月のお盆休みのホテル。簡単に見付かる訳がない。
観光地や温泉地をあきらめて、結局名古屋市内のホテルで、1室3人部屋を何とか予約出来ました。
日程と宿泊地が決まれば、後は具体的なドライブスケジュールの作成で、これは暇な私の仕事。旅行日までに出発時間からドライブコース、休憩場所、観光地点までを、分単位でタイムスケジュールを作成しました。
東北自動車道から北関東自動車道・関越自動車道・上信越自動車道・長野自動車道を経由して、長野県松本市で高速道路を降り、国道158号で岐阜県高山市に向かい、そこから郡上八幡市を観光して、名古屋の宿泊ホテルに向かうルート。計画は完璧です。
だが旅行当日、私の計画はぼろぼろに崩れ去りました。
高速道路区間では多少の遅れが有りましたが、それでも無難に松本IC迄来ました。最初のつまずきは、インター出口で一般道路に合流するまで、渋滞が発生していました。
この時はおそらく松本市内方向が混んでいると思っていたが、渋滞は我々が行こうとする高山市方面で、この道路はあの上高地へ行く道路で渋滞が発生していることが分かりました。
それでも最初のうちは結構走れると、甘い考えが有ったのですが、国道158号が山間部に入り、松本市安曇の梓川沿いの「道の駅 風穴の里」を越えた辺りで、車はピタリと止まってしまった。
それからが、ノロノロで殆ど動かない、まだまだ上高地の分岐までは遠い、カーナビは渋滞の赤いラインがずっと続いている。「上高地」を甘く見ていました。私達は上高地には行かないのに、逃げ場が無いのです。
私が計画したタイムスケジュールがどんどん遅れていきました。
後部座席の娘が突然「次の分岐を左に行かないと、右方向の上高地まではずっと渋滞で真っ赤。」と。そして、左方向の道でも高山市へ通じているか、調べると「野麦峠」を越えて行ける事が判明しました。その時渋滞の列は「入山隧道」の入口へ。目の前の道路標示に「トンネル内分岐。右方向国道158号 高山・上高地。左方向県道26号 木祖・奈川。」の表示。
トンネル内でも渋滞のまま分岐点へ。すると前の車も左方向へ行ったのです。続いて私達も左へハンドルを切りました。後続車両は有りません。道路標識に高山との表示が無かったから、娘の言葉が無かったら、そのまま右方向に行って渋滞の中でした。左方向の県道は多少狭い山道ですが、殆ど対向車もなく、スムースに走ることが出来ました。
娘の口から出た言葉、「野麦峠」。この地名を聞いた瞬間、私はその「野麦峠」の名前が記憶の中に、ハッキリと残っていたのを思い出していた。もちろん子供達は分かっていません。
野麦峠は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、古くは鎌倉街道とか江戸街道と呼ばれた街道の峠。乗鞍岳と鎌ヶ峰の間に有り、標高1,672mの地点に有る。(ウィキペディアより参照)
野麦峠と言えば、「女工哀史」にある、岐阜県飛騨地方の女性達が、長野県地方岡谷の工場に働きに行くため、超えた峠道です。明治から大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業を、陰で支えていた多くのうら若い少女達が、出稼ぎの為、この峠を行き来していました。
私は、この話を何時知ったか記憶ははっきりしません。ただ「あゝ野麦峠」と言うフレーズが脳裏に残っているのです。そしてこの後、車が野麦峠にに到着して、その訳がはっきりするのでした。
梓川沿いの国道を外れて、奈川沿いを走る「野麦街道」を進んで行きます。
(木々に覆われた野麦街道)
(街道の脇を流れる奈川。近くに建っていた双体道祖神)
ここでチョッと寄り道をします。道路わきに建てられた「道祖神」。広辞苑を開くと<道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では「さえのかみ」と習合されてきた。たむけのかみ。>と出ています。そして「さえのかみ」には、<伊弉諾尊が伊弉冉尊を黄泉の国を訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女をさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神。邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。>などと記されています。
この道祖神が特に多く見られるのが、長野県と言われていますが、とくに松本市や安曇野市周辺で、マンホール蓋のデザインにも描かれています。
(写真のマンホール蓋は、長野県の犀川安曇野流域下水道事業で、設置している蓋に成ります。中央に男女が並んで立っています。後方の山はニッポン百名山のひとつ「常念岳」です。)
栃木県では鹿沼市の粕尾地区に数体確認されていますが、栃木市では殆ど見る事は有りません。民俗学を研究されている、私の知人から「栃木市都賀町富張に、1基双体道祖神が祀られている。」と、教えて頂きました。
(都賀町富張の、農道脇の斜面に大切に祀られている「双体道祖神」)
最近は市内の寺院の境内に、新たに祀られた双体道祖神が見られるようになりましたが。
少しより道が長くなってしまいました。野麦街道に戻ります。
道路わきに石碑が見えたので、車を止めて確認すると、石碑は新旧2基建っています。
古い石碑は風化が激しく、文字は判読できません。新しい方は昭和62年12月吉日に奈川村が建立したもの。その脇のトンネルの入り口の様な、自然石を組み上げて、上部をアーチ状にした構造物が出来ている。脇の説明板に、<川浦石室と南無観世音菩薩 道中における毎年の凍死者を救いたいと奈川下郷の庄屋永嶋藤左ヱ門が、文政八年(1825年)に避難小屋を建てた。その功績を称えて木曽藪原の住職が石碑を建てた。昭和62年に石室が再建され、その碑文の訳文を記した。>と、記されています。
この野麦峠は難所の為、冬季には通行人が多数凍死をしたため、造られた避難施設だったようです。
石室の中を覗いて見ると、脇に休憩する為の長いすらしきものが。奥に竈の様なもの、火を焚いて暖を取るためのものか。
石室を後に車はヘアピンカーブの山道を登っていきます。そして前方に「岐阜県高山市」の標識が見えてきました。
目的地の「野麦峠」です。街道から左に脇道に入ると広い駐車場に出ました。
トイレや休憩所が有るようで、何台かの乗用車やオートバイが止まっています。入ってきた道路の脇に「政井みねの像」が建っています。
(男性が背負う少女の名は「政井みね」20歳。男性は少女の兄で「政井辰次郎」31歳。下部の台座の銘板には「あゝ飛騨が見える」と刻まれています。)
この「政井みね」の話は、山本茂美著「あゝ野麦峠」のルポルタージュや、その映画化やテレビドラマ化を通して有名になっています。
ここで、「あゝ野麦峠」からこの石像に関する部分「ああ飛騨が見える」の部分を抜粋させて貰います。
<明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、ニ十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。・・・後略>
「政井みね之碑」は更に山の上、旧街道に有るというが、そこまで登る自信もなく、目の前の「お助け小屋」に向かいました。
(お助け小屋は天保12年(1841)に、峠越えをする人達の避難小屋として建てられたもので、現在の建物は、昭和45年に野麦集落の古い家屋を移築したものだそうです。峠を越える若い工女さん達もこの宿で、疲れた体と心を休めて行ったものと思われます。)
現在、お助け小屋の中の食堂では、1979年に全国公開された映画「あゝ野麦峠」のビデオが放映されておりました。
主役「政井みね」役には、今も映画・舞台そしてテレビドラマ等で大活躍をされている、大竹しのぶさんです。兄の「政井辰次郎」役は、地井武男さんでした。他に、古手川祐子さんや原田美恵子さん、友里千賀子さんらの名前も見えました。
上高地への道路が渋滞していた事で、全く計画になかった「野麦峠」を、訪れることが出来ました。
参考資料:
・広辞苑第五版 岩波書店発行
・ウィキペディア 「道祖神」
・鹿沼市公式ホームページ「有形民俗文化財」
・「新版あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史ー」山本茂美著 朝日新聞社発行
・ウィキペディア 「あゝ野麦峠(1979年の映画)」
例年8月のお盆休みに、家族そろって日帰りでドライブを楽しむ程度でしたが、今年は子供たちの休みがうまく重なったので、急遽一泊旅行にしようと言う事になったのが、7月の末。
まず、何処へ行こうかとなる。ここ最近は山形県や宮城県と東北方面が続いていたので、今回は中部地方を目的地に定め、まず泊まれる宿探しを始める。これらの作業には私は加われない。子供らがスマホを駆使して、空いているホテル探しをする。7月末で8月のお盆休みのホテル。簡単に見付かる訳がない。
観光地や温泉地をあきらめて、結局名古屋市内のホテルで、1室3人部屋を何とか予約出来ました。
日程と宿泊地が決まれば、後は具体的なドライブスケジュールの作成で、これは暇な私の仕事。旅行日までに出発時間からドライブコース、休憩場所、観光地点までを、分単位でタイムスケジュールを作成しました。
東北自動車道から北関東自動車道・関越自動車道・上信越自動車道・長野自動車道を経由して、長野県松本市で高速道路を降り、国道158号で岐阜県高山市に向かい、そこから郡上八幡市を観光して、名古屋の宿泊ホテルに向かうルート。計画は完璧です。
だが旅行当日、私の計画はぼろぼろに崩れ去りました。
高速道路区間では多少の遅れが有りましたが、それでも無難に松本IC迄来ました。最初のつまずきは、インター出口で一般道路に合流するまで、渋滞が発生していました。
この時はおそらく松本市内方向が混んでいると思っていたが、渋滞は我々が行こうとする高山市方面で、この道路はあの上高地へ行く道路で渋滞が発生していることが分かりました。
それでも最初のうちは結構走れると、甘い考えが有ったのですが、国道158号が山間部に入り、松本市安曇の梓川沿いの「道の駅 風穴の里」を越えた辺りで、車はピタリと止まってしまった。
それからが、ノロノロで殆ど動かない、まだまだ上高地の分岐までは遠い、カーナビは渋滞の赤いラインがずっと続いている。「上高地」を甘く見ていました。私達は上高地には行かないのに、逃げ場が無いのです。
私が計画したタイムスケジュールがどんどん遅れていきました。
後部座席の娘が突然「次の分岐を左に行かないと、右方向の上高地まではずっと渋滞で真っ赤。」と。そして、左方向の道でも高山市へ通じているか、調べると「野麦峠」を越えて行ける事が判明しました。その時渋滞の列は「入山隧道」の入口へ。目の前の道路標示に「トンネル内分岐。右方向国道158号 高山・上高地。左方向県道26号 木祖・奈川。」の表示。
トンネル内でも渋滞のまま分岐点へ。すると前の車も左方向へ行ったのです。続いて私達も左へハンドルを切りました。後続車両は有りません。道路標識に高山との表示が無かったから、娘の言葉が無かったら、そのまま右方向に行って渋滞の中でした。左方向の県道は多少狭い山道ですが、殆ど対向車もなく、スムースに走ることが出来ました。
娘の口から出た言葉、「野麦峠」。この地名を聞いた瞬間、私はその「野麦峠」の名前が記憶の中に、ハッキリと残っていたのを思い出していた。もちろん子供達は分かっていません。
野麦峠は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、古くは鎌倉街道とか江戸街道と呼ばれた街道の峠。乗鞍岳と鎌ヶ峰の間に有り、標高1,672mの地点に有る。(ウィキペディアより参照)
野麦峠と言えば、「女工哀史」にある、岐阜県飛騨地方の女性達が、長野県地方岡谷の工場に働きに行くため、超えた峠道です。明治から大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業を、陰で支えていた多くのうら若い少女達が、出稼ぎの為、この峠を行き来していました。
私は、この話を何時知ったか記憶ははっきりしません。ただ「あゝ野麦峠」と言うフレーズが脳裏に残っているのです。そしてこの後、車が野麦峠にに到着して、その訳がはっきりするのでした。
梓川沿いの国道を外れて、奈川沿いを走る「野麦街道」を進んで行きます。
(木々に覆われた野麦街道)
(街道の脇を流れる奈川。近くに建っていた双体道祖神)
ここでチョッと寄り道をします。道路わきに建てられた「道祖神」。広辞苑を開くと<道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では「さえのかみ」と習合されてきた。たむけのかみ。>と出ています。そして「さえのかみ」には、<伊弉諾尊が伊弉冉尊を黄泉の国を訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女をさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神。邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。>などと記されています。
この道祖神が特に多く見られるのが、長野県と言われていますが、とくに松本市や安曇野市周辺で、マンホール蓋のデザインにも描かれています。
(写真のマンホール蓋は、長野県の犀川安曇野流域下水道事業で、設置している蓋に成ります。中央に男女が並んで立っています。後方の山はニッポン百名山のひとつ「常念岳」です。)
栃木県では鹿沼市の粕尾地区に数体確認されていますが、栃木市では殆ど見る事は有りません。民俗学を研究されている、私の知人から「栃木市都賀町富張に、1基双体道祖神が祀られている。」と、教えて頂きました。
(都賀町富張の、農道脇の斜面に大切に祀られている「双体道祖神」)
最近は市内の寺院の境内に、新たに祀られた双体道祖神が見られるようになりましたが。
少しより道が長くなってしまいました。野麦街道に戻ります。
道路わきに石碑が見えたので、車を止めて確認すると、石碑は新旧2基建っています。
古い石碑は風化が激しく、文字は判読できません。新しい方は昭和62年12月吉日に奈川村が建立したもの。その脇のトンネルの入り口の様な、自然石を組み上げて、上部をアーチ状にした構造物が出来ている。脇の説明板に、<川浦石室と南無観世音菩薩 道中における毎年の凍死者を救いたいと奈川下郷の庄屋永嶋藤左ヱ門が、文政八年(1825年)に避難小屋を建てた。その功績を称えて木曽藪原の住職が石碑を建てた。昭和62年に石室が再建され、その碑文の訳文を記した。>と、記されています。
この野麦峠は難所の為、冬季には通行人が多数凍死をしたため、造られた避難施設だったようです。
石室の中を覗いて見ると、脇に休憩する為の長いすらしきものが。奥に竈の様なもの、火を焚いて暖を取るためのものか。
石室を後に車はヘアピンカーブの山道を登っていきます。そして前方に「岐阜県高山市」の標識が見えてきました。
目的地の「野麦峠」です。街道から左に脇道に入ると広い駐車場に出ました。
トイレや休憩所が有るようで、何台かの乗用車やオートバイが止まっています。入ってきた道路の脇に「政井みねの像」が建っています。
(男性が背負う少女の名は「政井みね」20歳。男性は少女の兄で「政井辰次郎」31歳。下部の台座の銘板には「あゝ飛騨が見える」と刻まれています。)
この「政井みね」の話は、山本茂美著「あゝ野麦峠」のルポルタージュや、その映画化やテレビドラマ化を通して有名になっています。
ここで、「あゝ野麦峠」からこの石像に関する部分「ああ飛騨が見える」の部分を抜粋させて貰います。
<明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、ニ十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。・・・後略>
「政井みね之碑」は更に山の上、旧街道に有るというが、そこまで登る自信もなく、目の前の「お助け小屋」に向かいました。
(お助け小屋は天保12年(1841)に、峠越えをする人達の避難小屋として建てられたもので、現在の建物は、昭和45年に野麦集落の古い家屋を移築したものだそうです。峠を越える若い工女さん達もこの宿で、疲れた体と心を休めて行ったものと思われます。)
現在、お助け小屋の中の食堂では、1979年に全国公開された映画「あゝ野麦峠」のビデオが放映されておりました。
主役「政井みね」役には、今も映画・舞台そしてテレビドラマ等で大活躍をされている、大竹しのぶさんです。兄の「政井辰次郎」役は、地井武男さんでした。他に、古手川祐子さんや原田美恵子さん、友里千賀子さんらの名前も見えました。
上高地への道路が渋滞していた事で、全く計画になかった「野麦峠」を、訪れることが出来ました。
参考資料:
・広辞苑第五版 岩波書店発行
・ウィキペディア 「道祖神」
・鹿沼市公式ホームページ「有形民俗文化財」
・「新版あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史ー」山本茂美著 朝日新聞社発行
・ウィキペディア 「あゝ野麦峠(1979年の映画)」
2024-09-02 09:59
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