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田中一村展を見る

今月19日より、上野の東京都美術館にて、「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が始まりました。
私は早速、翌日20日に行って観てきました。
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当日は、9月も下旬に入ろうというのに、まだまだ厳しい太陽の光が、肌に突き刺さるような暑さで、上野公園も日傘を差して歩く人を、多く見かけました。
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会場の中は、大勢の見学者で溢れていました。

東京都美術館の企画棟の企画展示室は、正面エントランスから続く、LBF(B1F)から1Fそして2Fの3フロアーが有り、各フロアー毎に<第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代>、<第2章 千葉時代「一村」誕生>そして、<第3章 己の道 奄美へ>と言う構成で、作品の展示がされ、時代と共に田村一村の生涯を合わせて、見られるようになっていました。

最初、展示場入り口での、「田村一村」の紹介文の冒頭を、抜粋して参照させて頂くと、
<田中一村(本名 孝)は、明治41年(1908)7月22日、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に生まれた。5歳で東京へ移り、彫刻家の父から書画を学び「米邨」の号を受け、数え「八童」「八歳」と画号で署名した絵が最も早く数点残されている。一村の「神童」伝説的エピソードはこの頃から始まる。栃木では早くも何度か画会が開かれ席画もしたという。 ・・・(後略)>

展示会の最初の入口で、こうして「栃木」の文字を目にすると、何故か誇らし気持ちが湧いてくるのを、感じていました。

最初の展示物は、短冊に描かれた「紅葉にるりかけす」。赤く色づいた紅葉の枝に丸々とした小鳥の姿が描かれた大正4年(1915)の作品。一村8歳の時の作品で、栃木県立美術館蔵と説明されていました。とても8歳の子供が描いた物とは、驚きしか有りません。

会場内はずうっと見学者が列を成している為、その流れに沿って、1点1点作品と向かい合いました。
作品展示数は、作品№001から№311で、第1章が74点、第2章が一番多く130点、第3章が107点と成っています。主な作品には音声ガイドで説明を聞くことが出来ます。ナビゲーターは俳優の「小泉孝太郎」さん。優しい口調で語りかけてくれます。画家の言葉は声優の「中村悠一」さん。低くてドスの効いた声で、私としては少し雰囲気が分からなかった。

第2章から第3章へ、奄美へ移ってからの作品が田中一村の代表作になるのでしょうか、今回の展示会のリーフレットの表紙を飾る、「アダンの海辺」や、「不喰芋と蘇鐵」などの作品に人が群がっていました。実はここまでたどり着くのに、3時間以上立ちっぱなしで、すでに足が諤諤状態。椅子が有れば座りたい状態に成っていますが、皆さん同様なのか、会場内に用意された椅子は、空いていない。
何とか最後まで鑑賞して、会場を後にしました。最後に撮影ポイントとしてパネルが有りましたので、記念に写真に収めてきました。
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私の家には、地元の「栃木信用金庫」さんが、田中一村の作品をカレンダーにして配布したものを、2021年の「アダンの海辺」から残しています。今年で4作品に成ります。それ以前にも配布していたかどうか分かりませんが、素敵な作品なので家に飾っています。
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栃木信用金庫さんは、以前に喜多川歌麿の大作、「雪」「月」「花」の作品もカレンダーにして配布されています。それらも残しています。

今回の展示会では、栃木市立美術館所蔵の田中一村作品も4点展示されていました。
田中一村出身の地「栃木」。彼のお墓が、栃木市旭町の寺院「満福寺」の墓地に有ります。
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墓所の側らには、「熱砂の浜 アダンの写生 吾一人」の句と、写生をする一村の写真を見ることが出来ます。そして誰が供えたものか、奄美の浜で採取したと思われる、白い貝殻が有りました。
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今回の展示会には、個人の方が所有している作品が、113点も有り、今回の展示会に初めて展示された作品も、多く有りました。今回311点と言う多くの作品を、じっくり鑑賞出来て、貴重な時間を過ごすことが出来ました。
出来る事なら、一度「田中一村」が愛した奄美の風景を、見てみたいと思いました。

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