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草むらに埋もれる石碑の残骸 [石碑]

最近、岩舟町に足を向ける事が多くなっています。先日は両毛線を走る蒸気機関車を見に、岩舟駅へ。そしてその前は、岩船山南東側の中腹となる「兜山公園」に建つ、「御野立記念之碑」撮影の為です。
この石碑は、明治32年11月に明治天皇が此処、鷲巣御野立所にて近衛師団小機動演習を御統監されたことを記念して建立されたものです。
田代善吉著「栃木縣史・皇族系図編」には、≪11月16日午前9時、行在所御出門、同9時10分汽車に召され岩舟駅御着、龍馬に召され岩舟及び新里方面に進軍諸兵を御観戦の為、真先に龍馬を進められ、同地の高丘に登らせられて戦況をご覧遊ばされ、更に新里山麓に龍馬を驅らせられ、佐野方面より進軍せる南軍と、北軍との激戦を親しく御覧ぜらるること約2時間余に及びしが、激戦終わるや、更に岩舟山より坊主山中よりの両軍の動揺及地形等を見そなはさるること約1時間程であった。≫と記されています。
ここで、行在所とは当時の「栃木第二中学校」で現在の県立栃木高等学校に置かれた、明治天皇の御宿泊所で、当校にはその時行在所となった建物が「記念館(御聖蹟)」として保存されています。
更に「栃木縣史」を読み進めると、≪新里の御野立所より岩舟山鷲巣字兜山通称坊主山に行幸御観覧遊ばさる、此地は眺望よき地形である。此御野立所に於いて、御昼食を食し召さる、午後2時岩舟駅御発、午後2時15分栃木駅御着、御料の馬車にて午後2時25分行在所に御還御遊ばさる。≫と、その日を締めています。
ここで記されている「新里の御野立所」にも、記念の石碑が建てられていました。上記の岩船山鷲巣、兜山公園の石碑の他、岩舟町にはこの明治32年11月の近衛師団小機動演習の記念の碑が建てられていたのでした。その当時、鷲巣字兜山は岩舟村、そして新里字天狗は小野寺村と分かれていました。
この小野寺村大字新里字天狗に建てられた石碑を撮影したく、その場所が何処であるか地形図上で探索をしましたが、「下野藤岡」2万5千分1の国土地理院地形図には、「新里」の集落区域内に石碑の地図記号は記されておらず、ヒントを見付ける事が出来ません。そこでゼンリン住宅地図「栃木市6(岩舟)」で探索すると、岩舟町新里の西端、佐野市との境に近い両毛線の線路の北側に、石碑の記号を2個確認出来ました。
この場所は、三毳山の北東端にコブの様に連なる小丘の北側の山裾に当たります。
岩舟町新田、天狗山.jpg
(岩舟町古江から東方向を望む。左に岩船山、右側に三毳山の山裾、中央の小丘が天狗山)

このコブの様に突き出た小丘は標高55メートル。恐らくこの小丘が天狗山と思われます。この山の南側には、主要地方道桐生岩舟線が三毳山との間、切通となって通っています。また北側の裾野に沿って両毛線が走っています。
さっそく確認の為に現地に車を走らせました。
新里の集落の中央を南北に縦貫する「市道1052号線」を南に進むと両毛線の踏切が有ります。この踏切の手前線路に沿って西に入る細い道が有るので、右折して細い道を少し進むと、線路の北側が少し広場の様になっているので、そこに車を停め探索開始です。
すっかり緑の葉が生茂った桜木の木々の間に、ゼンリン住宅地図に記された如く2基の石碑を確認しました。しかしそれは目的の石碑とは違うものでした。
手前に建つ石碑には「小野寺公園」、碑陰には「明治四十年十月」「大字新里」の文字が刻されているのが確認出来ました。その奥の石碑は「轢死者供養塔」と刻されていました。
小野寺公園の碑.jpg轢死者供養塔.jpg
(小野寺公園と刻された石柱)          (轢死者供養塔と刻された石碑)

小野寺公園について、「下都賀郡史・第2巻」に以下の様に記されています。
≪大字新里字天狗山にあり、明治32年11月近衛師団機動演習を本県下に行せらるるや、大元帥陛下には親しく兵を閲し給い、同月16日本村大字新里 今の公園の地に蹕を止め給う。村民は此の千歳一遇の盛事を永遠に伝えんと欲し、明治40年1月御駐蹕の碑建設の計画を立て、先ず近辺一帯3.5アールの地を買収して村有となし、同年9月1日建碑式を挙げたり。明治44年2月12日本碑管理規定を設けて皇謨を無窮に伝へんと謀り更に此の地に植えうるに桜樹50余本を以てし小野寺公園となす。≫
小野寺公園.jpg
(小野寺公園は今、桜木に緑の葉を付け、こもれびに溢れていました)

ここで、この小野寺公園の横を走る両毛線について、開業は明治21年(1888)5月22日(小山-足利間・両毛鉄道)ですから、近衛師団機動演習を此の地に展開した時には、既に天狗山の北麓に沿って走っていました。従って明治天皇が御野立された場所が山上であれば、鉄路越しに演習の様子をご覧になったと思われます。
岩舟町新里1.jpg
(小野寺公園の北側に広がる田畑、ここに近衛師団の機動訓練が繰り広げられた)

現在、両毛線の岩舟駅と西隣りの佐野駅との間は、なぜか複線区間に成っております。この複線化工事は昭和43年(1968)に行われています。又、現在は有りませんが昭和27年(1952)には、この天狗山の北側、現在の踏切の場所から直ぐ西側の所に、小野寺駅が開業をしております。
天狗山と両毛線.jpg
(天狗山を東側から望む、両毛線が山の北麓を抜ける。その右側の森が小野寺公園)

昭和39年11月30日発行、国土地理院2万5千分「下野藤岡」の地形図を見ると、確かに踏切の直ぐ西側の所に駅の記号と「おのでら」の文字が記されています。
「小野寺駅」はその後昭和41年には休止となり、昭和62年に至って廃止されています。今はその面影は全く残っておりません。
両毛線の線路元小野寺駅付近.jpg
(かつて小野寺駅が有った所。今は何の名残りも認められない)

この事から、現状の姿から、明治32年当時の様子を伺う事は困難な事です。
御野立ちの所は何処だったのか、記念の石碑は何処に有るのか。

たまたま公園にいらした現地の古老に、この石碑の事について尋ねたところ、ご存知でした。話を伺うと、石碑は複線化に伴う造成工事の折りに重機で誤って破損させてしまい、公園の隅に移動して寝せてそのままになっているとして、その場所に案内してくれました。
そこは雑草が生い茂っていて、草をかき分けてみるとその陰から、石碑の残骸が現れました。
石碑の残骸1.jpg石碑の残骸2.jpg
(小野寺公園の草むらに横たわる、石碑の残骸)

この残骸と化した石碑に刻された碑文が、冒頭に紹介した「栃木縣史」に掲載されています。
石碑正面に、
≪御駐蹕之碑   海軍大將東郷平八郎書≫
碑陰には、
≪明治三十二年十一月 天皇 近衛兵を下毛の野に閲し十六日武を講し兵を觀し
 蹕を焉に駐めらる思布方雍熙の世皥皥の民治に居て亂を忘れず石に樹て蹕の
 址を表し以て皇謨を無窮に傳へむと欲す於戯盛倍大業民の忘る能はざるめ乃と
 謂ふべき乎
  明治四十年九月      栃木中學校長従七位 劉須謹撰并書
                                 小野寺村建設≫
と有り、横たわる石碑の残骸にも、碑文の文字を見つける事が出来ます。

こうした石碑の現状に時の流れと、時代の変化を改めて知る事が出来ました。
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両毛線岩舟駅にSLが停車 [祭]

今日は、現在行われている栃木県の大型観光キャンペーン「本物の出会い 栃木」のイベントのひとつ、「SL本物の出会い栃木号」が、1日限定で両毛線、小山・足利間を運行しました。
今日の運行を前に、3回の試運転が実施されたが、私も前回の試運転の時に線路際にて、SLの雄姿をカメラに収めました。
今回は、岩船山を背景にして走るSLの姿を撮る為に少し離れた、田圃沿いの道路に撮影の場所を確保しました。前回の試運転でSLの岩舟駅付近の運行スケジュールを確認していたので、岩舟駅に到着する時間、そして発車する時間、汽笛を鳴らすタイミングなど頭に入れていた為、余裕を持って撮影することが出来ました。
岩舟駅前にSLが姿を現すのは11時57分ごろ、その時間が近づく頃には、岩舟駅を望む南側の道路沿いは、カメラを構えた人達がズラッと並んで、SLが現れるのを今か今かと待ちわびています。
近くの踏切の警報器が鳴り出し、東の方向からSLの鳴らす汽笛の音と同時に、真っ黒な車体のSLが姿を現しました。
岩舟駅に進入するSL.jpg
(岩舟駅に進入して来たSL、ホームには大勢の人達で溢れている。)
岩舟駅に停車中のSL.jpg
(岩船山をバックに、岩舟駅に停車中のSL)
出発前煙をはくSL.jpg
(SLを少しでも近くで見ようと集まる人達)
岩舟駅を出発するSL.jpg
(12時28分、岩舟駅を出発するSL)
いよいよ出発です、甲高い汽笛を一つ鳴らした後、静かに四つの動輪が回り始めると、重量感の有る黒い鉄の車体がゆっくりと動き出します。そして次第に速度を上げ、岩舟駅を後にして佐野方向に姿を消して行きました。最後に長く汽笛を鳴らし、真っ青になった今日の岩舟の空に一筋の黒い煙を残して。
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栃木中央小学校の校庭隅に横たわる石碑 [石碑]

私が子供の頃6年間過ごした栃木市立栃木第二小学校は、2010年4月1日、栃木市立栃木中央小学校と名前が変わってしまいました。通学する学童数減少に伴って、直ぐ前に有った第一小学校と統合されての名称変更でした。
それからすぐ、私が、そして私の子供等が学んだ校舎やプールなど全てが取り壊され、2010年6月27日に訪れた時は、更地と化していました。
2010年6月27日更地と化した栃二小の跡.jpg
(校庭東側の道路、奥の突き当りは「栃木高等学校」。2010年6月撮影)
その後、栃木中央小学校としての新校舎建築工事が始まり、2012年2月14日に、4階建ての新校舎が完成しています。
栃木中央小学校.jpg
(新築された4階建ての「栃木中央小学校」校舎、2013年9月撮影)
その新しくなった栃木中央小学校の校庭の南西隅に、建てられずに横たわる石碑が有ります。建てていないのは、石碑の中ほどを横断する様に、ひび割れが起きている為、安全上の理由という事です。
横たわる聖駕駐蹕記念之碑.jpguts246.jpg
(栃木中央小学校の校庭南西隅に横たわる石碑2015年4月撮影と碑文書き写し)
そしてその下側にもう一基、石碑の右上部分が欠損した為か、コンクリートに埋め込まれた石碑も、同様に横に寝かせて据えられています。
石碑の説明碑1.jpg
(上記の碑の足元に同じく設置されている石碑、同日撮影)
この碑は、上の「聖駕駐蹕記念之碑」が、先の第二次世界大戦に敗れた後、地中に埋められたが、昭和42年当時の学校長やPTA会長らが、掘り起こして修復、栃二小の管理棟の東側、玄関脇に再び建てた経緯が記されています。右上の破損部分欠落した文字について、文章の前後関係で推察される文字を(カッコ)内に記し、下に書き写し文を載せます。
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(「聖駕駐蹕記念之碑」の経緯を説明した碑文を書き写しました)
私が通学をしていた当時には、まだこの石碑は建っておりませんでした。もし建っていても小学生の私には、絶対気が付かなかったでしょうが。私のアルバムに残る、昭和38年(1963)に撮影した当時の第二小学校管理棟の東側に石碑の姿は当然石碑は写っていません。
1963年栃木第二小學校.jpg
(昭和38年撮影の、栃木第二小学校校舎、手前2階建てが管理棟)
昭和53年(1978)1月の雪が降った後に撮影した、第二小学校の管理棟東側に、周囲を石柱で囲まれた中に建つ石碑の姿が写っています。
1978年1月雪の第二小.jpg
(昭和53年撮影の、降雪後の栃木第二小学校、管理棟東側に石碑が建つ)
戦後校庭の地中に埋めた石碑を掘り出して修復した昭和42年、その年の4月に校庭の遊具で遊ぶ子供達を撮影した写真を見直してみると、遊具の奥に石柱の囲いとその時植樹した木の支柱などと共に石碑の一部が写っているのを確認しました。正にこの年の3月に建てられていたのでした。
1967年4月校庭にて.jpg
(昭和42年4月撮影、遊具の奥2階建ての管理棟の横に植樹された木の支柱等が写る)

管理棟の東側、玄関脇に掲示された「栃木市立栃木第二小学校」の銘板の左に写る、在りし日の「聖駕駐蹕記念之碑」の姿。私のアルバムの中に残っていました。
聖駕駐蹕記念之碑1.jpg
(栃木第二小学校の管理棟東側に建つ「聖駕駐蹕記念之碑」の様子)

大正7年11月、栃木中学校(現、栃木県立栃木高等学校)に大本営を置かれ、栃木・茨城両県下に於いて挙行された陸軍特別大演習、最初の14日は演習地下館駅へ。2日目15日の演習地新治駅へ。3日目16日は結城駅へと仰出され、4日目の17日は栃木町周辺に演習地を求め、朝5時50分に大本営を御出門。その日の午後は栃木第二尋常高等小学校(現、栃木中央小学校)の校庭に行幸され、演習に参加した各将校をこの所に集めて、親しく御講評を行われました。この石碑は、碑文にも刻されている通り、その所に記念碑を建て、その御遺蹟を永遠に保存する事を目的としたようです。
しかし、その後第二次世界大戦に敗れた事で、記念碑も地中に埋められてしまう事と成り。その後は昭和42年3月に建てられた石碑が記す如き経緯を辿り、現在はここ栃木中央小学校の校庭の隅に静かに寝かして置かれる事と成りました。

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JR両毛線にSLが走る [祭]

栃木県で現在行われている、「本物の出会い 栃木」デスティネーションキャンペーン。
この4月1日から6月30日の3ヶ月の期間中に、県内各所で色々なイベントが行われています。
その一つとして、今月19日(土曜日)に、JR両毛線の小山駅から足利駅間を、蒸気機関車が1回限定で運転されます。
この「SL本物の出会い栃木号」の編成は、SL+旧型客車5両+EL(全車指定)という。
この本番1回の運転を前に、同じスケジュールにて試運転が3回計画され、そしてその試運転の最後、3回目が本日行われました。
地元で蒸気機関車が走る所が見られる。これは見逃す訳にはいかない。
私は3月この情報を知った時、試運転と本番の合わせて4回の運転を、写真に収めようと運転日をカレンダーにメモしておりました。
ところが、1回目・4月5日はすっかり忘れて、我家でのんびりしている時、昼近く遠く栃木駅の方向から、ピーィという甲高い汽笛の音を耳にして、気付いた時は手遅れでした。
2回目は4月26日、準備万端で出かけました。頭に描いたアングル、太平連山を背景に爆走するSLが撮れる撮影ポイントへ。ところが何処にもカメラを構えた人がいないでは有りませんか。再確認をすると、なんてことか2回目の試運転は前日4月25日でした。どうもカレンダーに書き込むとき間違っていた様です。
そして試運転3回目は今日、5月9日。今度こそミスは許されません。準備を完璧に整え撮影ポイントに出掛けました。その途中、両毛線の線路沿いには多くの車が止まり、多くのカメラマンが思い思いの場所に陣取りSLが来るのを待っているでは有りませんか。
逸る気持を抑え、予定した駐車場に車を停めて、小走りに撮影場所へ移動。そこにもすでに数十人のカメラマンが、三脚をセットしたり、カメラを点検したり準備を進めていました。
今日は朝の内、結構本降りの雨模様でしたが、昼近くには小康状態に変わり、傘を差す必要が無くなっていました。暫らく鉄路の先、大平駅辺りを通過しているのか、何度も汽笛の音が聞こえてきます。
汽笛は聞こえてきたが、なかなか姿を現しません。カメラのレンズを一杯に伸ばして、SLの姿を捉えようとしていると、いよいよ姿を現しました。周囲のカメラマンの方達も一斉にシャッタを切り始めています。
SLは白い煙を吐きながら、ドンドンと近づいてきます。
夢中で構図を見定め、シャッタを切り続けました。あっと言う間に列車は私の横を過ぎて、岩舟駅の方向に走り去り、その姿も見えなくなってしまいました。
両毛線にSL1.jpg
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三度目の正直で、やっとSLの雄姿を撮影する事が出来ました。
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「とちぎ橋カード」をゲットして来ました。 [コレクション]

我が栃木県では「本物の出会い 栃木」デスティネーションキャンペーンが、4月1日から6月30日までの3ヶ月間開催されていますが、その一環として「とちぎ橋カード」が県内10箇所で配布されています。
栃木県内の河川に数多く架けられた橋の中から、栃木県、県土整備部、道路整備課、構造物担当の専門家の方々が厳選した、「橋梁10箇所」。橋好きの私にとって以前から興味の有った橋も有れば、今回初めて現地を訪れて見た橋も有りました。
カード表の橋の写真は、その構造を説明する目的も有り、思川の「観晃橋」や大谷川の「日光橋」は、橋の下部構造を見せる為、下から撮影しています。
今回、そんな「橋カード」をゲットしながら、特殊な構造を持った橋巡りを楽しみました。
<1枚目>松原大橋(まつばらおおはし) 一級河川思川 県道南小林・松原線 
       平成8年(1996)架設。
橋カード松原大橋1.jpg
松原大橋1.jpg松原大橋2.jpg
私の松原大橋との出会いは、1993年10月の架設工事中、思川に何本もの橋脚だけが建っている写真を撮影したのが始まりです。最近では2011年4月2日に歩いて渡っています。東日本大震災が発生した後で、まだ時々大きな余震が起きている頃でした。

<2枚目>観晃橋(かんこうばし) 一級河川思川 県道栃木・小山線
       平成4年(1992)架設。
橋カード觀晃橋1.jpg
観晃橋1.jpg観晃橋2.jpg
観晃橋は栃木から小山駅に向かう時、必ず渡る橋ですが、現在のこの橋が完成した時は、本当に開放感のある橋に成ったと感じました。架け替え前の橋の思い出は、小学3年生の春の遠足が小山の「森永」の工場と小山のSLの操作場見学の後、思川の河川敷に下りて記念写真を撮りました。その記念写真のバックに以前の観晃橋が写っていました。

<3枚目>五行川橋梁(ごぎょうがわきょうりょう) 一級河川五行川 真岡鐵道
       明治27年(1894)架設(推定)、大正2年(1913)転用
橋カード五行川橋梁1.jpg
五行川橋梁1.jpg五行川橋梁2.jpg
五行川橋梁を見るのは今回初めてでした。真岡には2016年5月27日に街歩きに来ました。その時は五行川に架かる「長瀬橋」や「田町橋」、そして行屋川沿いを歩いて「施無畏橋」や「静風橋」などを見て回りましたが、その時はこの五行川橋梁まで足を延ばしませんでした。今度は「橋カード」の様な、蒸気機関車と橋梁の写真を撮りに行きたいと思います。

<4枚目>晩翠橋(ばんすいきょう) 一級河川那珂川 県道西那須野・那須線
       昭和7年(1932)架設。
橋カード晩翠橋1.jpg
晩翆橋1.jpg晩翆橋2.jpg
那珂川に架かる晩翠橋は以前は国道四号線上の橋で、那須温泉や茶臼岳方面に観光に行く時は、必ず渡る橋でした。橋を渡ると直ぐに左に折れると那須道路。現在は高速自動車道で行くことが多くなった為、この橋を渡る機会も少なくなりました。当然以前この橋を渡るとき、橋の下部構造にこのようなアーチ状に成っている事は全く知る由も有りませんでした。初めて晩翠橋を下から撮影したのは平成12年、今回3度目の訪問に成りました。

<5枚目>烏山大橋(からすやまおおはし) 一級河川那珂川 県道那須烏山・御前山線
       平成10年(1998)架設。
橋カード烏山大橋1.jpg
烏山大橋1.jpg烏山大橋2.jpg
烏山大橋に来たのは、今回で2度目です。最初は2015年11月、那珂川の一つ上流側に架かる「平成19年度土木学会選奨土木遺産認定の境橋」の紅葉を撮影に行った途中、烏山大橋の斜張橋の主塔が目に留まり、寄り道をしていました。

<6枚目>渡良瀬橋(わたらせばし) 一級河川渡良瀬川 県道足利・太田線
       昭和9年(1934)架設。
橋カード渡良瀬橋1.jpg
渡良瀬橋1.jpg渡良瀬橋2.jpg
足利の街は私の好きな街の一つで、若い頃は鑁阿寺や織姫公園に出掛けていました。足利の街は「東の小京都」とも称され、街の中を西から東に流れる渡良瀬川には魅力ある橋が、3本架けられています。上流側から「渡良瀬橋」「中橋」「中田橋」。橋カードとなった渡良瀬橋は歌手の森高千里さんの歌詞で全国的に有名になりました。
≪渡良瀬橋で見る夕日を・・・・・≫で歌いだし、≪・・・夕日がきれいな街≫と歌われます。
橋カードもその景色を意識したものに成ってます。

<7枚目>宮の橋(みやのはし) 一級河川田川 県道宇都宮・笠間線
       平成7年(1995)架設。
橋カード宮の橋1.jpg
宮の橋1.jpg宮の橋2.jpg
JR宇都宮駅の西側、田川と大通りとの交点に架かる橋。いつも大勢の歩行者や車が行き来しています。
栃木市から宇都宮に行くと東武宇都宮線が多い為、JR宇都宮駅まで行くのはなかなかありません。今回も久しぶりの訪問でした。

<8枚目>第一松木川橋梁(だいいちまつきがわきょうりょう) 一級河川渡良瀬川
       わたらせ渓谷鐵道 大正3年(1914)架設。
橋カード第一松木川橋梁1.jpg
第一松木川橋梁1.jpg第一松木川橋梁2.jpg
渡良瀬川の上流域、日光市足尾町には明治23年(1890)12月に架設され、現在国の重要文化財にも指定されている、日本でも初期の道路用鉄橋「古河橋」をはじめとして、その他吊橋や斜張橋など特殊な構造の橋が多く架けられている為、私も以前から撮影に通っています。

<9枚目>日光橋(にっこうばし) 一級河川大谷川 国道119号
       昭和37年(1962)架設。
橋カード日光橋1.jpg
日光橋1.jpg日光橋2.jpg
日光駅で電車を降り、一直線に続く登り坂の道を歩いて行く、道路の両側には観光客相手のお土産店や飲食店が並んでいます。下鉢石町、中鉢石町から上鉢石町と抜けてくると道路は大谷川に架かるこの「日光橋」を渡り、対岸の日光の二社一寺へ向かう。ただこの日光橋を渡るとき、私達の目は直ぐ上流側に架かる朱塗りの「神橋」に向いてしまう。この場所はこれまでも何度も来ているが、今回初めてこの「日光橋」を意識して観察しました。改めて見るとやはりこの橋はデザイン的にも派手さが無く、脇役に徹した橋に成っていると感じました。

<10枚目>湯西川橋梁(ゆにしがわきょうりょう) 一級河川湯西川(五十里湖) 野岩鉄道
        昭和58年(1983)架設。
橋カード湯西川橋梁1.jpg
湯西川橋梁1.jpg湯西川橋梁2.jpg
最後の一枚は野岩鉄道湯西川温泉駅でゲットしました。併設されている道の駅湯西川には、ゴールデンウィークに入っていることも有って大勢の観光客が来ていました。
最後の橋カードに写る「湯西川橋梁」は、その眼の前を通る道路の先に見えています。
そこには既に私と同じようにその橋を写真に収めようとしている人が、鉄橋を通る電車が来るのを待っている様で、私も早速撮影の準備をして、無事写真に収める事が出来ました。

「橋カード」の裏面には、「橋名」「路線名」「所在地」「交差物件」「橋長(最大支間長)径間数」「代表形式」「架設年」「管理者」等の基本情報と、「豆知識」として橋の特徴や周辺情報などが記されています。

これらの「橋カード」は今回の観光キャンペーン期間限定版。宇都宮市や日光足尾町などどこのカード配布場所に行っても、県内外からのコレクターが来ていました。カード自体は無料配布に成っていますが、はるばる遠方から時間とお金を掛けて、観光も兼ねて来ています。それが元々この「橋カード」配布の目的でしょうから、これによりまた地元に架かる橋にも興味を持たれる人が増えればと思います。
今回の私の「橋カード」による県内橋巡り、新しい発見も有り楽しい時間を過ごせました。
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