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太平山神社の三光台 [懐かしい写真]

私が若かった頃撮影をした写真帳の中に、太平山神社で写した少し変わった写真が出て来ました。
1973年7月に撮影をしたもので、現在では既に無くなっている、太平山神社拝殿前の表参道の石段を登って来た脇に有った建物の中に飾られていた奉納額の写真です。
奉納額3.jpg
(数多くの奉納額が掲示された建物の内部)
建物外観の写真は写していませんでしたので、記憶の中に僅かに残っているだけです。上の写真を見ると、吹き抜けの窓の外に少し写っている建物は、拝殿の前に出る時最後に潜る門で、太平山神社のホームページの中で納められたいる「太平山ハイキングMap」に「勅使門」と説明されている朱塗りの門と思われます。
表参道石段.jpg勅使門.jpg
(表参道石段の奥に見える朱塗りの門)    (勅使門を潜ると拝殿の前に出る)

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明治45年7月17日、栃木理髪業組合が創立10周年を紀念して奉納した「大鏡」。
その鏡の中にも多くの奉納額が写って見えています。他に「花鳥百人一首」と題した奉納額も有りました。
奉納額1.jpg
上の写真に見える奉納額は、栃木県河内郡薬師寺村大字仁良川の金子傳吉さんが、明治25年9月18日に奉納したもので、太平山神社表参道の様子を描いた絵です。「神橋」「隨神門」「鳥居」など明治中期の表参道の姿を窺い知ることが出来ます。

昭和9年6月10日田代善吉著、下野史談會が発行した「栃木縣史 神社編」の第四節に「縣社大平山神社」の中に神社の建築物について記されています。そこには
 ・境内は  壹萬六千四百二十五坪
 ・御本殿  明治十四年の新築  六坪
 ・御拝殿  明治九年新築   總坪十五坪
 ・社務所  天保十年六月建設 總坪数三十三坪
 ・神楽殿  明治六年六月建設 總坪 六坪
 ・隨神門  享保八年八月建設 二階建十坪六合
 ・納額殿  嘉永元年七月建設 二十一坪六合
 ・神  橋  延寶五年八月建設 
 ・水  屋  嘉永五年八月建設
この中で、本殿や拝殿・社務所・隨神門は、ほぼそのままの姿を現在に残していると思いますが、「神楽殿」は場所を少し後方に引き、リフォームして現在は「福神社」となっています。従って現在も代々神楽の奉納はこの社殿で行われている様です。
1966年3月神楽殿.jpg福神社.jpg
(1966年3月撮影、神楽殿)           (2013年1月撮影、福神社)

表参道の中ほどに架けられていた「神橋」は、1981年撮影した時はまだ鮮やかな朱色と黒の擬宝珠を持つ橋が架かっておりましたが、今年(2018年6月18日)訪れた時は、その姿は無く丸太3本を渡した「仮橋」に成っておりました。
神橋1.jpg神橋2.jpg
(1981年撮影、太平山神社の神橋)     (2018年撮影、丸太3本を渡した仮橋)
 
上記の建物の名前の中に「納額殿」と称する嘉永元年(1848)に建てられた建築物は何処に有ったのか、最初に私が撮影した奉納額が多数飾られていた建物がこの「納額殿」だったのかも知れません。1958年頃の太平山神社社殿群の写真の中に、拝殿と向かい合う建物が「納額殿」に当たるか?現在は「三光台」となっています。
1958年太平山神社境内.jpg2018年太平山神社境内.jpg
(1958年頃の社殿群、左側建物が「納額殿」か) (2018年現在の状況、左側「三光台」)

三光台は昭和49年(1974)12月に竣工してから、太平山神社の行事の会場などに使われて来ています。
三光台1.jpg三光台3.jpg
(太平山神社では一年間を通して多くの神事・祭事が行われています)

又、晴れて空気の澄んでいる日には、三光台より筑波山の霊峰も手に取る様に望む事が出来ます。
三光台からの眺望.jpg
(三光台より東南東方向を望むと、霊峰筑波山が関東平野の奥に見えます)

この「三光台」の三光とは、太平山神社に祀られている「日・月・星」の三座の神様で、太平山神社はかつては「三光神社」とも称されていました。表参道の三の鳥居の神額にはこの「三光神社」の名称が記されています。
三光神社の神額.jpg
(「三光神社」の神額が掲げられている、三の鳥居)

※参考文献:太平山神社ホームページ、田代善吉著「栃木縣史・神社編」、栃木市勢要覧
   
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栃木市箱森町の悪五郎神社 [栃木市の神社]

私が住んでいる栃木市箱森町に、悪五郎神社と称する小さな建物が建っています。
場所は「とりせん栃木店」のお店の丁度裏手、市道2051号線の道路脇に石の鳥居が建っているので、神社で有る事が認識出来ます。
悪五郎堂1.jpg
(市道2051号線の脇に見える石の鳥居、後方の建物は「とりせん栃木店」)
ところが、鳥居を潜って建物の前に来ると、神社としては少し違和感が有ります。建物は間口1間、奥行き1間ほどで、正面は観音開きの扉、側面及び背面は大谷石が積まれ、防火対応に成っています。その正面上部中央に掲げられた扁額に書かれた文字は「悪五郎堂」。その手前に吊るされているのは、鈴では無く鰐口です。この様子を見る限り神社と言うより寺院の様です。
悪五郎堂2.jpg悪五郎堂3jpg.jpg
(悪五郎神社正面)                  (「悪五郎堂」と記した扁額、そして鰐口も)
それもそのはずで、元々は「正樹院」と言い、銅仏の阿弥陀如来を安置する堂宇でした。現在はこの場所に祀られておりますが、「栃木郷土史」によると、
≪現今悪五郎神社と云うは、明治維新の折り、全村神道と化し、仏像院破壊せられ遂に散失せり、後、森戸家にて先祖を思う余り、神社として此所に安置す≫と、記されています。元は箱森の鷲宮神社境内に有りましたが、前記の如く神仏分離令により離れ、4回ほど場所を変え現在に至っています。

明治元年十一月、箱森村より知県事様ご役所に提出された「箱森村明細書上帳」(栃木市史、資料編近世)の中に、≪阿弥陀堂壱ヶ所、舗地二間二間、除地ニ御座候。 但、正寿院地内ニ有、之同院支配ニ御座候、真言宗吹上村正仙寺末寺≫又、≪正寿院、当時無住 本寺兼代ニ御座候≫と、記されています。
「箱森村明細上帳」には、この正寿院の他、宝蔵院と宝珠院の寺院名が記されています。これら箱森村に有った三つ寺院は明治維新の廃仏毀釈にて全て姿を消しています。
そんな中で正寿院(松樹院・正樹院と同じ)地内に有った阿弥陀堂だけは場所を移し、悪五郎神社として今に至っています。

「悪五郎堂」の事を調べてみると、江戸時代の後期に河野守弘が20年余の歳月をかけて著した「下野国誌」を初めとして、栃木市の歴史を扱った多くの文献の中に見る事が出来ました。
昭和12年4月1日、栃木市役所が発行した、「栃木史蹟」(大浦倉蔵編著)の中にも、「悪五郎堂及び弦巻神社」と題して以下の様に記されています。
≪下野國長沼淡路守宗政より7代目の、従五位下駿河守宗光は、幼名藤五郎、無双の強勇なるが故に世に悪五郎と呼ばれた。鎌倉に出で、征夷大将軍久明親王(92代伏見天皇の御弟)に仕へ、軍功に依り菊紋を賜わりました。其の後遁世して鎌倉の大御堂に住ひましたが、其の後長沼及び皆川に関係深き下野國皆川庄筥森に来り、松樹院(草庵)を建て、阿彌陀佛如来を安置して念佛三昧に入り、皇紀2011年第97代後村上天皇、正平6年8月6日、79歳で入寂松樹院悟峰融覚と號しました。≫
長沼宗光の没年、正平6年の年号「正平」は南朝のもので北朝は観応2年になります。西暦では1351年に成ります。下野国誌では観応2年となっていました。 
「栃木史蹟」によると、その後の長沼氏は≪12代目成宗の時、古河公方滅亡と共に氏族各地に散在し、成宗の孫宗春は奥州会津に走り、芦名氏を頼りて在りしが、天文11年卒し其の男光寛光隆兄弟は、芦名氏没後旧領筥森に立帰りて居りましたが、光隆は後 備後福山侯に仕え、其の子孫は森戸を名乗りて連綿として居ります。光隆より3代目の雅楽之助の弟藤兵衛は、筥森明ケ戸に来りて、森戸を名乗りて住ひました。光寛は筥森に於いて天正4年11月10日に歿し、其子孫は民間に在ると言われて居ります。≫
今「悪五郎神社」の建つ周辺には多くの森戸姓の家を確認する事が出来ます。




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惣社町に建てられた石碑 [石碑]

栃木市惣社町に有る石碑を探そうと、国土地理院発行の二万五千分の一地形図を開きました。栃木市総社町を見る為には「栃木」の地形図では無く、「小金井」を見る必要が有ります。その地形図にて記念碑の地図記号の箇所を探していくと、総社町内に二ヶ所の記念碑記号を確認出来ました。
記念碑の地図記号が記されていた場所は、一つは大神神社の境内(添付概略図の1を記した記念碑地図記号)、そしてもう一つは惣社町の東端、「栃木市惣社東産業団地」内(添付概略図の2を記した記念碑地図記号の場所)に有りました。
最初の「大神神社」の境内に建つ石碑は、芭蕉句碑を指すものと思われます。この境内には他にも沢山の石碑が建てられています。
芭蕉句碑1.jpg芭蕉と室の八島.jpg
(大神神社境内に建つ芭蕉句碑)  (句碑の横に建てられた説明板)
この芭蕉句碑が建立されたのは明治2年(1869)3月ですが、地形図上に記念碑記号が記されたのは昭和63年発行の地形図からです。その前の昭和55年発行の地形図では、大神神社の参道入口、一の鳥居付近に記念碑記号が記されました。この地図記号を付した理由は分かりません。

もう一つ、「栃木市惣社東産業団地」内に建つ石碑について、私はこれまでその存在を知らなかったので、さっそく現地に行って確認をして来ました。この思川右岸の壬生町と惣社町の境界近くに記念碑地図記号が記されたのは、昭和55年発行の地形図からに成ります。
石碑は産業団地内の緑地公園の道路脇に建てられています。記念碑が3基そして小さな石の祠が、コンクリートの基礎の上に綺麗に並んで建てられています。
惣社町石碑1.jpg
(栃木市惣社東産業団地内に建つ石碑群)
この石碑の建っている場所は、地形図に記されている点と約100メートルずれています。恐らく石碑が元建っていた場所より産業団地の造成の際に移設されたものと思われます。又、3基の石碑と石の祠が以前もまとまって建てられていたのか、別々の場所に建っていたものを、造成時に現在地にまとめられたものかも確認出来ていません。
先ずこれらの石碑等の内容を確認して行きたいと思います。向かって一番左、一番大きな石碑。正面上部に右から左へ「揚水記念」、その下側に碑文が縦書きに刻されています。
≪本用水ハ旧十一人堀ト稱シ☐蓋シ天保年間惣社小倉川沿十一人共力川原ノ堆地ヲ開田シ灌漑用水堀ヲ設ケジナラム明治維新後開拓工事速進シ開田拾壱町五反歩ニ達ス然ルニ用水不足ノ折遇昭和六年小倉川砂利會社ニ於テ砂利採取ノ為ノ用水益不足ス依テ田所有者野中銀治大貫七郎荒川守正荒川悠助大貫久次郎出井茂喜ノ六氏代表トナリ縣ヘ☐状シ會社☐交渉ス結果揚水器械一万円ニテ設備シ灌漑ニ便セリ≫その後に≪正六位勲四等功五級野中猪三郎撰文並謹書≫そして左下隅に≪森戸六泉刻≫と石工の名が見えます。
碑陰には耕地所有者34名の氏名が順序不同で刻され、その後に発起者8名の氏名が並んでいます。
最後に建碑の日付でしょうか≪昭和十八年二月十一日≫と有りました。
揚水記念碑(表).jpg揚水記念碑(裏).jpg
(揚水記念の碑・表)                 (揚水記念の碑・裏) 
揚水記念碑(碑文写し).jpg 
(「揚水記念」の碑文を書き写しました)

その右隣り、石の祠は「水神社」と刻されています。祠の左側面に「昭和十八年二月十一日」と刻されています。この日付、上記の石碑に刻された日付と全く同じです。石碑の建碑に合わせてこちらの祠も祀られたことが分かりました。
水神社.jpg
(水神社、揚水記念碑と同じ日に祀られています)

祠の右隣りの一回り小さな石碑、正面中央上から下に大胆に書きなぐった文字で、≪旧十一人堀用水灌漑水路改修記念≫と刻されています。その右側には≪栃木☐☐土地改良事業 工事延長二千三百米 昭和二十八年三月三十日竣工≫と、そして東側には≪集☐暗渠六十米 工費金八拾万圓 補助井戸機械☐☐費金弐拾六万圓 昭和三十一年三月竣功≫そしてその下側に工事委員11名の氏名が刻されています。
碑陰には工事応援者(3名)や工事委員(10名)、そして工事関係者の氏名(35名)が刻されています。
旧十一人堀用水灌漑水路改修記念碑(表).jpg旧十一人堀用水灌漑水路改修記念碑(裏).jpg
(旧十一人堀用水灌漑水路改修記念の碑、表面と裏面)
旧十一人堀用水灌漑水路改修記念碑(碑文写し).jpg
(「旧十一人堀用水灌漑水路改修記念」の碑文を書き写しました)

右端に建つ一番小さな石碑は、正面上部に「墾田紀念之碑」、その下側に碑文が刻されていますが、苔がf着してたり風化が激しかったりで、思うように文字を判読する事が出来ません。確認出来た文字から内容を読み取ると「相謀り明治35年開墾を発起、大正6年1月16日竣工、この碑を大正7年1月16日建設した」その後に、≪正六位勲四等功五級野中猪三郎撰並書≫そして左下端に≪石工 松村三瓢彫刻≫と読み取れました。
碑陰には≪下都賀郡国府村大字惣社字馬☐☐二三八七番三町二反歩≫その後に墾田建碑人7名の氏名が並んで刻されています。
墾田紀念之碑(表).jpg墾田紀念之碑(裏).jpg
(墾田紀念之碑、表)              (墾田紀念之碑・裏)
墾田紀念之碑(碑文写し).jpg
(「墾田紀念之碑」の碑文を書き写しました。判読出来ない文字が多く成っています)

これら3基の石碑の関係は、右端の「墾田紀念之碑」が大正7年の建碑で一番古く、次いで左端の「揚水記念」が昭和18年。真ん中の石碑が戦後で昭和31年と言う順序に成ります。又、大正7年と昭和18年の碑文は、野中猪三郎氏の撰並びに書に成ります。

私は地元では無いのでこの碑文の中に出てくる「十一人堀」の所在が何処なのか断定する事が出来ません。国土地理院の地形図には記されていないですが、上記の旧十一人堀の記念碑と関係の有りそうな石碑が、同じく惣社町に建っていました。場所は県道2号線の南側、総社町田中の集落の北外れ、道路脇に水田をバックに背の高い石碑が建てられています。(添付概略図の3を記した記念碑地図記号の場所)
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(惣社町田中の集落の北の外れに建つ石碑、左手奥の森は大神神社)
旧四ケ村樋門再鑿碑(碑文写し).jpg
(「旧四カ村樋門再鑿碑」の碑文を書き写しました)

石碑正面には上から下に「旧四カ村樋門再鑿碑」と大きく刻されています。竣工したのは大正五年六月、建碑されたのは昭和三年十一月、これは先の「墾田紀念之碑」とほぼ同時期に建てられています。
惣社町には江戸時代に開発された「四カ村用水」と称した灌漑用水が有りました。四カ村とは壬生・惣社・田・大光寺です。惣社・田・大光寺の三カ村は理解できますが、壬生が此処に有る事がなかなか理解できません。用水の流れは惣社の北東部に接する柳原地内に於いて、小倉川(現思川)より取水、壬生・惣社・田・大光寺の四カ村を灌漑しています。当初の開田は五反歩でした。

惣社町に有ったこれらの用水の形跡が何か無いか、明治初期に作成された地形図(通称迅速測図)を細かく確認すると、惣社地内に青く染められた筋が目につきました。
先ず惣社町の北東の端、「柳原」との境に小さな沼が描かれています。そこから流れ出した水の流れが南に向かって伸びています。「北原」の集落の北東辺りで東方を流れる小倉川からの水路が合流しています。そこから「北原」と「台」の集落の東側を南に流れ、現在の県道2号線を過ぎる辺りで今度は流れが左右に分岐しています。東南方向に進む本流は「田中」の集落の東方で再び小倉川の戻って行きます。一方南西方向の支流は「田中」の北側付近で大きく西に流れ、「内匠屋」の集落の西側で南に流れを変え、田村に入り「田本」の観明寺の東、愛宕山神社を抜けて南の星宮神社方向へ流れています。この用水の流れを概略図にしてみました。
惣社町周辺概略図.jpg
(明治初期の栃木市惣社町付近の概略図、破線部は現在の主要交通網)

惣社地区を流れていた用水路や柳原との境に有った沼跡辺りは、現在市道1022号線が走っています。
石碑を見て行くと、その地域の歴史を僅かながら思い描く事が出来ました。



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栃木市泉川町の稲荷神社 [栃木市の神社]

栃木の市街地から県道75号線(栃木佐野線)を西に向かい、錦着山の北西部にて赤津川に架かる「泉橋」を渡ると、その先に直ぐ信号機の有る交差点、そこを右折して北方向に進みます。
この道路は現在市道1021号線と言う1級幹線に成っていますが、明治の初期に発行された地形図には「従出流村至栃木町道」と、栃木町と寺尾・出流方面とを繋ぐ幹線道路でした。これは明治中期以降に鍋山の石灰を栃木町へ運ぶ為の「鍋山人車鉄道」の軌道が敷設される「鍋山新道」が出来る迄、まさに重要な道路で有りました。
コンビニの有る交差点から入って暫らくすると、道路左手前方の田んぼの先、木立の中に石の鳥居が見えて来ます。ここが今回紹介する、旧泉川村社の「稲荷神社」に成ります。
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(2018年7月撮影、市道1021号線より左奥の稲荷神社を望む)

「栃木県神社誌」を開くと、栃木市泉川町352番地 旧村社として、主祭神 稲荷神。配神 稲倉魂命。境内神社 鹿島神社・星宮神社・八坂神社と有ります。
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(稲荷神社社殿を参道入口の鳥居手前より撮影)

神社の由緒沿革として、≪後花園天皇の頃、嘉吉2年(1442)伊勢内外より遷座し祀り、稲荷神社と称し奉り享徳年間(1452~1454)、檜村と称した事が有る。その当時檜の大樹が有って、幹中より清水が湧いたのでその後、泉川と変更した。≫と、そして≪本社に現存する大欅は、その大樹である檜を中心として、2本の欅を植付たものが、檜をかこんで、現在周囲が二丈四尺(7.27メートル)余となり、一本の様に見える程成長した。この大欅は享徳年間に植樹したといわれる。天保十二年(1841)の頃、本殿及び拝殿を改築して現在に至っている。≫と記されています。

私が2013年の秋に訪れた時には、この大欅は無くなっていました。
先ほどの神社の東側を南北に走る市道1021号線を更に北に進むと、新井町の旧村社「天満宮」の東脇を舐めるように通過していますが、この天満宮社殿の直ぐ手前左脇にドッシリと根を張る立派な大欅が聳えています。この大欅も近年大きく成りすぎた為上部を詰めてしまいましたが、栃木市が天然記念物に指定している「大欅」です。
一方、こちらの稲荷神社境内に聳えていた欅も、私がまだ若かった頃に見た時は大きく感じました。1979年の3月に遊び半分でその欅の根元に登り、大地に映った木の影を写真に収めました。その影を見ると確かに神社誌に記されたように幹が2本に分かれて写っていました。
1979年3月稲荷神社 欅1.jpg1979年3月稲荷神社 欅2.jpg
(1979年3月撮影、稲荷神社境内の大欅)(大地に伸びる大欅の影、同日撮影)

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栃木市野中町、永宮橋が新しくなりました。 [栃木市の橋梁]

栃木市野中町の北側から西側へと流れる赤津川に、最近新しい橋が開通いたしました。
この新しい橋は、野中町から吹上町に向かう、市道2042号線が赤津川を渡る箇所に成ります。
橋の名前は「永宮橋」です。
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(この3月新しい姿を現した「永宮橋」)         (橋桁に取り付けられた橋銘板)

この辺は、ウォーキングでたまに歩いて来る所で、2年前に来た時に赤津川左岸に沿った道路に迂回路が作られ、川の土手で護岸工事らしき光景が目に留まりました。その時考えた事は、どんな内容の工事をしているのか。新しい橋を架けているのかとも考えましたが、直ぐ上流に橋は架かっているし、工事個所の川の右岸の先には東北自動車道が走って、橋を作っても取り付け道路のルートが思い描けませんでした。
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(赤津川左岸沿いの道路に作られた迂回道路と工事用スーパーハウス)

今年の3月に出掛けた時にその疑問は解けました。そこには既に橋桁が掛かっていました。しかし、まだ取り付け道路がどうなるのかは、見られませんでした。 
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(新しい橋桁が架けられています。手前は旧永宮橋の高欄)

4月に確認した時は、橋桁を覆っていた足場も外されて、高欄が取り付けられて、橋自体は完成している様でしたが、まだ取り付け道路は出来ていません。
橋桁の横には既に橋の銘板が取り付けられていました。橋梁名は「永宮橋」、その下側の日付は「2018年3月」が架橋年月。
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(新しい「永宮橋」より上流側を望む。古い「永宮橋」とその後方の小丘「米山」が見える)
新しい「永宮橋」への取り付け道路は、左岸側は直ぐ川に沿っている以前の道路に接続。又右岸側は橋詰から大きく円弧を描いて、上流側の旧橋の橋詰の所で、これまでの道路に接続して、東北自動車道のアンダー方向に進みます。私の期待は新しい橋から新しいルートの新道が作られるのではと、例えば橋の左岸側は橋から真直ぐ東方向に抜けて、栃木市総合運動公園北側の道路につなげるのではなどと、勝手に想像をしていたのです。

尚、新しい「永宮橋」の約60メートル上流側に架かっている古い橋も、橋名は同じ「永宮橋」です。
この古くなった橋が架けられたのは、昭和26年(1951)です。既に架橋後67年間にもなり、以前からその寿命が懸念されていて、架け替えか補強補修か検討されていた時、あの、今から3年前の9月9日から10日にかけての豪雨に伴い、橋の通行が危険となって通行止めの処置が取られていたのです。
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(2015年9月10日以降通行止めとなった「永宮橋」)
この時に、この赤津川の下流に架かっていた、「田原橋」と「鹿嶋森橋」が橋脚の損壊や流失の被害を受けてその後取り壊し処理され「廃橋」となっています。
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(2015年9月10日の豪雨の被害で廃橋となった、「田原橋」と「鹿嶋森橋」の被災状況)

ただ、「永宮橋」はその後応急的な補強がされて、再び通行が可能になっていました。その時私は、補強する事で新しい橋への架け替えは無いのだと考えました。でも今、見事に新しい橋が架けられ安心して通行する事が可能になったのです。

この「永宮橋」の橋名の由来はなんなのか、その一つとして、橋の上流右岸、東北自動車道のアンダーを抜けた先、野中町と吹上町の境界が山の頂上を通る「米山」と言う、標高82メートル程の小丘の南端に石の鳥居が建てられています。
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(東北自動車道のアンダーを抜けた先に現れる石の鳥居の有る小丘「米山」)

この「米山」の野中町側の山の中腹に祀られている神社が、「長宮神社」と言う野中町の旧村社に成ります。
永宮橋6.jpg永宮橋7.jpg
ただ、橋名は「永宮」の漢字ですが、神社名は「長宮」となっています。この相違は何なのか、私にはまだ回答を見付けられておりません。
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おやま田んぼアート2018を巡る [祭]

初めて6月中に梅雨開け宣言が出された今年、連日気温が35℃を超える中、車を走らせて小山市で今年も開催されている「おやま田んぼアート2018」の4つの会場を見て廻り、併せて各会場に設置されたスタンプも記念に押してきました。
最初に訪れた会場は栃木の市街地から一番近い、「美田会場」です。この会場には二つの田んぼアートが作られていますが、思川の右岸土手の上から見えたのは、現在ロシアにて開催されているサッカーワールドカップで活躍が注目されている「本田圭佑選手」の姿です。
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同じ美田会場のもうひとつのアートは、栃木ゴールデンブレーブスのチーム名と野球選手のユニホームを着た、「おやまブランド公認キャラクターの政光くん」を描いている様ですが、こちらは高い位置から眺める場所が有りませんので、全体を撮影することが出来ませんでした。両毛線の電車に乗って窓越しに見る様になっている様です。一部だけ撮って来ました。
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次は小山市の東側、絹会場です。この会場は去年と同様、手塚治ワールド。今年は「鉄腕アトム&ジャングル大帝」がたんぼアートで描かれています。本当に良く表現されています。会場にはたんぼアートの「原画」や実際の田んぼに描く為の「平面図」などが展示されていました。
鉄腕アトム.jpg

次は間々田会場です。
こちらの会場は、背景に思川の桜堤や、遠く太平山や晃石山などの山並みが連なっています。周辺は紫陽花が色とりどりに咲いていますが、もう見頃は過ぎていました。田んぼアートは「弱虫ペダル」と言う、週刊少年チャンピオンに連載されているスポーツ自転車漫画だそうです。
泣き虫ペダル.jpg

最後は渡良瀬遊水地会場(生井桜堤)です。
こちらのアートは可愛らしい「ハローキティ」です。真っ青な空の下、緑色の田圃をキャンバスに描かれたアート。キティちゃんの小さく黒い目がこちらを見つめています。
ハローキティー.jpg

今年も楽しく見て回る事が出来ました。

話しは田んぼアートから少し外れますが、6月30日のテレビニュースで、JR西日本・山陽新幹線にて「ハローキティ新幹線」が運行を開始したとして、ピンク色のリボンを車体にペイントした新幹線が発車する映像が流れていました。
サンリオの人気キャラクターは、日本中いや世界中で知られています。
先日、サンリオのテーマパーク「サンリオピューロランド」が有る多摩市に行ってきました。そこでハローキティがデザインされたマンホールカードを入手しました。ハローキティの話題として合わせて紹介します。
多摩市1.jpg多摩市2.jpg


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